D—妖殺行 〜吸血鬼ハンター3 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 死人の村 第二章 逃亡者たち 第三章 妖人の里 第四章 殺人ゲーム 第五章 旅路の果て 第六章 星へゆく港 あとがき [#改ページ] 第一章 死人の村    1  その小さな村は、惜しみなく降り注ぐ陽光の恵みをかたくなに拒否しているようであった。  辺境の村として経た歳月はともかく、規模は近隣の集落とさして変わらない。八十戸ほどの家々は、ぬくんだ光の中に、茫洋とかすんでいる。残雪の最後の|一片《ひとひら》も黒い土に吸い込まれ、春は近い。  だが——  村は死んでいた。  強化プラスチックと|表面処理《コーティング》木材のドアは開け放たれ、力なく微風にそよいでいるし、夕暮れ近いこの時刻なら、主婦や子供たちの賑やかな声で湧き返る共同炊事場にも、埃だけが舞っている。  いない。人が。  ほとんどの家の内部は、家人の争った様子もなく、整然たる姿を留めているが、中にひとつふたつ、居間の椅子のひっくり返った家がある。ベッドカバーがもつれている家がある。眠りにつきかけたものが、小用のためそこを出たように。  出て——帰ってこない。  そんな家の床には小さな黒い染みが見える。小指の先ほどの点がいくつか、犬か飼い猫の毛かと見まごうほどのもので、誰の目もひくまい。目をひこうにも、目をもつ人間がいない。  夕暮れも近くなり、白い陽の光がうっすらと蒼みを帯びて、閑散とした通りを吹く風が勢いを増すと、どこかの物陰に黒い影が湧き出し、開け放たれた村の門をくぐってやってくる旅人に、血走った眼を据える——そんな不気味な気配の立ち込める村の夕まぐれであった。  さらに時がたち、蒼茫と暮れゆく通りに薄暗い影がただよい始めた頃、まさしく村の入口から、鉄蹄が大地を叩く音と|車輪《わだち》の軋みとが伝わってきた。  門の内側にある見張り塔の前でぴたりと停止したのは、三騎の人馬と一台のバスであった。  辺境連絡用の原子バスの車体に手を加えたもので、窓は鉄棒をはめ込み、車前面に鋭い衝角を装着してある。まっとうな人間の使う代物とは言えなかった。  車体は黒一色——その前にそびえ立つ三人組の|凶々《まがまが》しい雰囲気とよくマッチしている。 「どうしたんだ、こりゃ?」  と右側の男が言った。黒シャツに黒レザーのスラックス。凶猛な表情と異様に長い胴が際立って目立つ男であった。 「招いた者への出迎えじゃねえよな」  と左端の男も言う。顔こそ苦笑しているが糸みたいな細い眼は、凄まじい光を湛えて付近を|睨《ね》めまわしていた。たくましい背にくくりつけられた六角の棒が、地に墜ちる影を串刺しにしたように見せている。  ふたつの顔が同意を得るように中央の、ひときわたくましい巨漢に向いた。  首から手首まで、薄い金属を張った革製の|防具《プロテクター》で覆った身体は、しかし、その下の筋肉の山をくっきりと浮き上がらせている。  石塊に剛毛を植えつけたような顔は、暗がりで出会ったら、熊でさえ二の足を踏むのではないかと思われる迫力に満ちていた。彼にまとわり、吹きすぎる風は、獣の臭気さえ帯びそうであった。 「やられたな」  とつぶやいた声も岩のようであった。 「ひと晩で、村人全員——どうやら、金づるを失くしちまったようだぜ。念のため、何軒か回ってみろ。用心してな」 「ぞっとしねえなあ」と黒ずくめの男が言った。「グローヴに行かせたらどうだい。あいつなら——」  声は途中で消えた。巨漢が一瞥したのである。石を見るような眼つきであった。 「——じょ、冗談だよ、兄貴」  黒ずくめが青ざめたのは、体躯の差ばかりではなく、よほど巨漢が怖いとみえる。  六角棒の男とともに、さっさと馬を降り、滑るような足取りで村へ入った。 「ボルゴフ兄さん、どうかして?」  馬車のドアが開く音がして、運転席から金髪の娘が顔をのぞかせた。  花のように美しい顔立ちだが、二〇を過ぎたばかりの年齢には過剰な妖艶さは、どこか食肉虫を思わせるものがある。 「この村、やられたのかもしれん。——いつでも動けるようにしておけ」  ぼそぼそと言ってから、急に天地がひっくり返ったようなやさしい口調になって、 「グローヴの具合はどうだ?」  と訊いた。 「今のところは大丈夫、発作は当分起きそうにないわ」  娘の答えがきこえたのかどうか、巨漢はうなずきもせず、それからしばらく、|寂《せき》として音もない家並みを見つめていたが、そのうち、ひょい、と眼球だけを上向け、まだ仄白さが残る空へ眼をやった。  丸い月がもう白々と姿を見せている。 「もう少し雲が欲しいが」  こうつぶやいたとき、通りからふたつの人影が風に乗るような速さでやってきた。 「やっぱりだ。人っ子ひとりいやしねえ」  と黒ずくめが言うと、六角棒の方も空を見て、 「じき日が暮れる。早いとこ、風をまいた方が無難だぜ、兄貴」  と、人さし指を突き出した。  その指先の小さな黒点を、薄闇の中で巨漢は簡単に見抜いたらしく、 「墓地へ行くぞ」  と言った。  二人はさっと顔に緊張の色を走らせたが、こちらも、すぐに、にっと笑い、軽々と馬の背に跨るや、むしろ堂々と、死の静寂が落ちた村の通りへ馬を進めだした。  村に何が起こったのか。  生活の場から人間が一斉に姿を消すという現象は、こと辺境においては、奇々怪々なものではない。  例えば、食肉性の浮遊生命体・通称“|浮海母《くらげ》”の中から二〇年に一度の割で生まれる大型は、直径二キロにも及ぶその身体でひとつの村を覆い、生命体だけを選択的に溶かし、吸収してしまう。  深山幽谷にのみ棲息するといわれる妖獣——|綺眼獣《バジリスク》ともなると、村の出入口で、村内の一点をじっと凝視すればよい。巨大な一眼が赤みを帯び、やがて真紅に輝き出すと、村人はひとり、またひとりと、恐ろしいその顎にかかるべくやってくる。ただ、この獣の唯一の弱点は、その眼術に憑かれた人間たちの中に、時たま、家族に別れを告げる奴がいる場合で、その言葉が必ず決まっているため、残りの連中は総出で綺眼獣狩りの準備を整えることになる。  だが、ひとつの村から人間が丸ごと消滅する最大の原因には、もっと身近な、もっと恐ろしいものがひとつある。  この怪現象の報せが、運よくその村を無事通り抜けた旅人のひとりによってもたらされる時、人々は過去に滅び去ったはずの暗黒の主が、その周囲をうろつきまわる足音を惻々として感じるのである。  闇の|主人《あるじ》——吸血鬼たちが。  村はずれの墓地まで移動した三騎と一台は、ここでもすぐ、その歩みを停めることになった。  五百メートルと離れぬ森の一角に、苔むした墓石が|蜿々《えんえん》と連なり、ぼちぼちと青黒い闇が地の表から湧き出してくる広場があった。  目標でもあるのか、彼らは四方に目を配りながら、歩を進めていったが、やがて、墓石も尽きようとする森の奥で停止したのである。  そこだけ、何やら掘り返したものか、広範囲にわたって赤土が露呈し、地底の魔人が荒れ狂ったような様相を呈している一角から、異様な鬼気が吹きつけてきたのだ。  先頭の二人が馬上で凍りつき、巨漢の喉仏がごくりと鳴るほどの、それは凄惨ともいうべき気配であった。  この破壊された土地に何が潜んでいるのか。  男たちは眼球だけを動かして、鬼気の発現点を|走査《スキャン》しようと試みた。  鈍い音がしたのはそのときである。  いや、それは声であった。病人が発作を起こしたときのような、苦しげな、恥も外聞もない呻きが、長く低く、この奇怪な情景にまとわりつき始めたのだ。  だが、男たちは動かない。  鬼気に骨がらみ縛りつけられ動けないこともある。しかし、何よりも、その声は、呻きは、馬車の|内側《なか》から聞こえるのだ。  巨漢の質問に応じてあの娘は、「発作は起きない」と言わなかっただろうか。その言葉が裏切られたのは、やはり、びょうびょうと吹きつける異形の気のせいか。その呻きが、どんな病にかかろうと、人間には到底出し得そうにない陰惨不気味なものであるのも、これまたその[#「その」に傍点]せいか。  回答を示すように、一本の太い幹の陰から人影が現れたのは、数秒の後であった。  それは、幽鬼のごとき覚つかぬ足取りで赤土を踏み踏みやってくると、彼らの前方、十メートルほどの地点でようやく立ち停まった。  くっきりと輝く銀月に浮き出た姿は、五〇年配の老人のものであった。それ自体白光を放つような銀髪と威厳に満ちた顔は、明らかに村の長老と|思《おぼ》しいが、この老人は、実に、それを知るもの[#「それを知るもの」に傍点]たちから見れば、不気味この上ない仕草をふたつも行っていたのである。  襟を立てた上着の胸元を左手で押さえ、開いた右手を口の前にあてがっているのだ。歯を隠すかのように。 「よう来てくれた」  と老人は言った。苦しげな、ようやく吐いたといった感じの声であった。 「よう来てくれた……だが、遅かった……村の連中はひとり残らずやられ[#「やられ」に傍点]、わしも、また……」  このとき、男たちは、老人の眼が自分たちの方を向いていないことに気づいていただろうか。  その死魚みたいに澱むどろりと濁った瞳の先には何もなかった。にわかに濃さを増した闇の中に木々の列だけがつづいている。 「……早く追うてくれ。奴は——奴は娘をさらっていった。早く追うて、取り戻しておくれ……もし、もはや、奴らの仲間であれば……ひと思いに滅ぼしてしもうておくれ……」  訴えるように、かき口説くように、老人の声は細々とつづく。  眼前の男たちには眼もくれず、誰もいない場所に向かって。魔物たちの跳梁跋扈する闇がしんしんと忍び寄るさなか、これは何とも異様な光景であった。 「奴は、前から娘を狙っていた。何度も何度も奪おうとして、その都度わしに撥ねつけられ、ついに夕べ、牙を剥きおったのじゃ……ひとりがやられれば、あとは鼠算じゃった……頼む、呪われた宿命から、娘を救ってやってくれい……奴は夕べ……北へ逃げた。おぬしの足なら、まだ間に合う……娘を救うたら、ガリューシャの街へ行け。わしの妹がおる。……事情を話せば、約束の、一千万ダラスの報酬を手渡してくれる……頼んだ……ぞ……」  このとき、老人の背後の土の山に変化が生じた。  もこりと小さな隆起が盛り上がり、それを突き破って青白い手が現れたのである。夜のみ咲く“死人の手”という花にそっくりの、それは本物の手であった。  低いざわめきが、森に満ちていく。怨むがごとく、呪うがごとく、ざわめきには飢えがこもっていた。永遠にいやされることのない血の飢えが。  土を撥ねのけて次々に起き上がる人影は、一夜で吸血鬼と化した村人たちであろう。  生前の姿をそのままに、顔色だけは蝋のごとく生白く、それに月光があたって異様に青く光るために、形容し難い不気味さである。  屈強な男もいる。か細い女もいる。ワンピース姿の少女もいる。半ズボンの男の子もいる。およそ五百人近い彼らが、血走った眼を光らせ、口を真一文字に結んで頭や肩にまといつく土を落としもせず、じっと男たちを凝視している様は、妖異とも凄愴とも言い難い。 「もう、もう間に合わん。……なんとか、わしらを斃して逃げろ……夜になってしもうたら……わしも……」  老人の左手がぱたとおちた。  その首筋に残るふたつの傷跡を、村人たちも示していた。  老人が右手を下ろすのと、彼らが口を開けるのと、どちらが早かったか。  かっと開いた唇の上歯茎から二本の乱杭歯が剥き出されたのである。 「ほう、こいつは面白え」  さすがに緊張した声で言いながら、黒ずくめの男が腰の円月刀に手を伸ばした。  鬼気の呪縛が解けたものか、六角棒の手も背中の凶器へ滑る。  ずい、と老人が前進した。背後の群衆とともに。 「そおれ!」  待っていましたとばかりに、黒ずくめが馬を駆った。六角棒が後につづく。  蹄にかかって数人の村人が頭を砕かれ、のけぞったところを胸骨や腹を踏みつぶされた。 「どうした化け物。かかってこい!」  黒ずくめが叫ぶと同時に、牙を剥き出して四方から襲いかかる村人たちの頭がほぼ半分、西瓜みたいに切れて空中へ吹っ飛んだ。  次の瞬間、銀光が月輪を描いて、次の列の首が舞う。さしもの吸血鬼も、脳や首を失ってはいかんともし難く、脳漿を撒き散らしつつ、あるいは血流を噴水のごとく噴き上げながらどうとばかりに倒れ伏した。  犠牲者の頭部を輪切りにしたものは、男の腰に収まった直径三十センチほどの半月型の刃物であった。その周縁を鋭く研ぎ澄ませたそれは、辺境の戦士たちの間では円月刀で通っている。通常、端にワイヤーか紐をつけ、伸縮自在に振り回しては、使い手の周囲に一種の制空圏を作り、敵を寄せつけないのだが、扱いに熟練を要するため、使いこなすものは少ない。  しかし、いま、黒ずくめの両手から美しい銀弧を描いて迸る凶器は、魔法のように、わずかな位置のずれも見逃さず、右から左から、上から下から、村人たちを輪切りにしてゆくのだった。いや、明らかに、ひとりずつ切断角が異なる場合もある。  そのスピード、襲いかかる角度の変幻ぶり。一度狙われて助かるものがいるとは思えない。  円月刀の切断音とは別に、何とも不気味な音をたてるのは、六角棒愛用の武器であった。つまり、六角棒だ。その両端が杭のごとく尖ってはいるものの、本来は振り回して敵を撃退する武器だ。持ち主の六角棒もそう使っている。だが、これはまたなんと凄まじい振り回し方だろう。腰のあたりで水車のごとく垂直に回り、右方の敵の頭を叩きつぶしたと思いきや、回転はそのまま背中を通って、次は左側の敵。移動にコンマ一秒もかからない。  六角棒の前後左右から、ぱっと四つの影が空中に浮いた。吸血鬼特有の超人的な筋力を駆使しての|跳躍《ジャンプ》攻撃だ。  六角棒が迎え討った。その動きは、魔術そのものであった。  右側の老人の白髪頭が上から下へ陥没した次の瞬間、前方の老婆の顔は顎ごと下からこそげ取られて宙に舞い、わずかに遅れて左と背後の二人がそろってその心臓を棒の先端に貫かれていたのである。  この神技がどれほどの腕力を要求するものか。——いや、六角棒の右手は肩のあたりに固定されているだけであった。どう見ても、彼の右手は手首から下が微動だもせず、棒はひとりで勝手に動き、村人を粉砕しているとしか思えない。  人間業ではあり得なかった。  だが、村人は五百人いる。彼ら二人の手練をもってしても、バスへの攻撃は防ぎ切れない。  現に、他の吸血鬼たちは二人を無視し、大地を踏みならしてバスへ駆け寄っている。  そして、ひょおと風が鳴るたび、絶叫をあげて何名かが同時に打ち伏すのだ。  風が鳴り、数珠つなぎに倒れる村人たち。  彼らを串刺しにしているのは、巨漢が放つ弓矢であった。  都市の商店で販売しているような加工品ではない。手ごろな下枝をぶった切り、そこに獣の腸の筋を張っただけの野蛮極まりない代物だ。両腰と背にくくりつけた矢筒の中身さえ、先端を尖らせた単なる鉄の棒にすぎない。  それが、巨漢の手にかかると精確無比なミサイルと化すのであった。  巨漢は一度に一本をつがえるのではなかった。五本を引きしぼり、同時に放つのだ。矢を取る動きも、つがえの動作も、まるで無造作。そのスピードからいって、狙いすら定めているとは思えぬ盲射ちだ。  それでいて、一本も的をはずさない。はずさぬどころか、矢は完全に、最低三名の村人の心臓を貫いているではないか。腹を刺しても吸血鬼は滅びぬ以上、これは当然の行為だが、瞬きするにも足りぬ時間で、どう目標を定め、どう弓を移動させるのか。  すべて不明のまま、村人たちは、バスの前に累々と屍をさらした。  馬上の男たちの背後から、小さな悲鳴が上がったのはそのときだ。  女の声がバスの中から聞こえた。 「いかん——引け!」  巨漢の叫びより早く、男たちは身を翻していた。バスの背後へ。  うおおーんと、獣そのものの叫びを発して村人が走り出した。  ぐんぐんと詰まる距離が五メートルにまで縮まったとき、土を蹴る悪鬼たちの足が不意に停まった。  彼らとバスの中間に忽然と、ひとりの青年が立ち塞がっているのである。  ただそれだけで、血に飢えたものらの突進が止まるものではない。  青年はそも、どこから出現したのか。  緩やかなウエーブの前髪が額にかかり、血色のよい健康そのものの顔の中で、無邪気な瞳が恐れ気もなく悪鬼たちを見つめていた。  意外な出現ぶりにためらった村人も、その生気に満ちた姿に、願ってもない獲物と判じたか、次の瞬間、どうっとばかりに押し寄せてきた。  そして、何かが起こった。  闇に生じたのは、何条もの光の帯であった。  波を貫いて飛ぶ銀魚のように、それは風に舞う布のごとく乱れたと見えて、まさしく精確無比、おのおの一閃で、村人たちの心臓を串刺しにしていたのである。五百名の吸血鬼を、一瞬のうちに……  胸部から炎を噴き上げ、村人は倒れた。のたうち痙攣しつつ、やがて静かになった顔は、昨日の夕暮れまではそうであったろう安らかな死相を浮かべていた。  バスの陰からのっそりと、六角棒が顔を出した。累々と横たわる屍を見て、 「うひょう、こいつぁ、凄えや」  と口笛を吹く。吹いてから、何やら心配そうな顔で、 「大丈夫かよ、グローヴの奴」  とバスの窓を見上げて言った。  張本人である青年の方は見ようともしない。彼はすでに消えていた。出てきたときと同じように。 「やっちまったものは仕様がねえ」と黒ずくめが、反対側から出てきて言った。「それより、あの爺さん、娘をさらった貴族が北へ逃げたって言ってたな。確かに今ならまだ追いつく。兄貴。場所を探って追っかける手だぜ。無事連れ戻しゃ一千万だ。どうせ、手ごめにされてるだろうが、なあに、貴族ともども首ちょん斬って、人間に戻してやったのはおれたちと凄みゃ、相手は女だ。黙って払わぁ」  彼の背後で、巨漢がつぶやいた。 「おれたちと言えりゃいいがな」 「なんだって?」  黒ずくめは巨漢の顔を見、すぐに眼線を追った。巨漢は右手前方の繁みを見つめていた。先刻、老人が話しかけていた場所を。 「出て来なよ」  と巨漢が言うと同時に、黒ずくめの右手で円月刀が月光を撥ね返し、六角棒が風を切った。  あの異様な鬼気の主が老人ではないと、彼らもわかっていたのである。その張本人が林の中にいる。彼らが武器に手をかけたのは、その鬼気の中に、貴族が放つのと同じ冷気を感じたせいであり、その発現点を看破し得なかった屈辱を糊塗するためであった。 「来なければ、こっちから行くが、あの爺さんが話しかけてたのをみると、どうやら同業。しかも、おれたち以上に信頼されてるらしい。となれば、野暮な真似はしたくねえ、どうだい、一千万の仕事について、仲良く話し合おうじゃねえか?」  提案を終えて巨漢は少し待った。返事も動く気配もない。太い、毛虫のような眉が、ぎゅっと吊り上がった。 「兄貴、こっちが早えぜ!」  黒ずくめの男の手から円月刀が飛んだ。どういう仕組みか、それは木々の間を器用にくぐり抜け、しかも信じ難いスピードでもって、巨漢の睨めつける直線上を疾ったのである。遠慮会釈もない、殺意に満ちた一撃であった。  美しい音がした。木立の間から銀光が逆に流れた。  わっと叫んで横へ身を退けた男二人の背後で、鋼が闇を打つ音がした。  巨漢が右手に握ったものは、いま、黒ずくめが放ったばかりの円月刀であった。  研ぎ澄まされたその表面を、すうと赤い帯が滑っていった。巨漢の手が流した鮮血である。石のような顔に初めて湧いた感情の色は、激怒とそして戦慄であった。 「やるねえ」  と呻いて、六角棒が馬の横腹を蹴った。  動かない。  もう一度蹴った。ブーツの踵には拍車がついていた。脇腹の皮膚が裂け、血が筋を引いた。それでも馬は動かない。竦んでいると気づいたとき、六角棒は初めて蹴りつけるのをやめた。  バスのドアが開き、 「どうしたの、みんな?」  娘が顔を出した。  敏感に気配を感じ取り、美貌は自動的に林の奥を向いた。兄たちに倣って。  闇の奥で気配が動いた。  こつこつと蹄の音が近づいてくる。  その若者は、忽然と彼らの前で月光を浴びていた。  闇そのものが結晶し、人の形を取ったようであった。    2  黒コートの胸で光る青いペンダントの神秘な輝きも、|旅人帽《トラベラーズ・ハット》の下の美貌には遠い。  馬上で手綱を握ったその姿は、偶然ここを通りかかったばかりの旅人のように平然たるものだが、無論、ただの旅人とはちがう。 「|何者《なにもん》だ、おめえ?」  黒ずくめが粘い声で訊いた。男の自分ですら、背筋が寒くなるような美貌と、必殺の一撃をこいつが打ち落としたのだという認識がせめぎ合い、おかしな声を出させているのだった。  影は答えず、飄然と行き過ぎようとする。 「待ちなよ」と六角棒が呼び止めた。「おめえも、あの爺さんに呼ばれたハンターなら、おれたちもそうだ。いきなり仕掛けたのはこっちが悪かったが、名前ぐらい名乗り合っても罰はあたるまい。おれたちは、マーカス兄妹——おれは次男のノルトだ」  影が歩みを止めた。 「こっちが四男のカイル」  会釈ひとつせず、黒ずくめが敵意に満ちた眼を輝かせた。 「でかいのが一番上の兄貴のボルゴフ」  紹介が終わると同時に、巨漢の腿のあたりで鋭い音がした。ふたつになった円月刀が銀粉を|煌《きら》めかせつつ地上におちた。奇妙な断面は折ったのではない。握りつぶしたのだ。巨漢は血まみれの手のひらを馬の耳で拭いた。毛並みに血が粘つき、そろって一方に倒れた。 「男はもうひとりいるんだが、病弱で車から出られねえ。最後がレイラ——末の妹だ」 「よろしくね——むっつり屋さん」  愛想の良い声とは裏腹に、猫みたいにぱっちりした眼は炎の敵意で燃え光っている。しかし、旅人の顔がちらりとそちらに向くや、炎はたちまち揺れ動いた。 「マーカス兄妹——名前は聞いている」  初めて旅人が口を開いた。抑揚のない、鉄のような声には、あらゆる感情が欠如していた。美貌にふさわしからぬ、あるいはこの上なくふさわしい声であった。  だが、男たちの名前を知ってなお、このような声を出せるとは——  マーカス兄妹——辺境随一の腕利きとされる|吸血鬼《バンパイア》ハンター・グループであった。  長男ボルゴフ以下、次男ノルト、三男グローベック、四男カイル、長女レイラの計五人。これまで仕留めた貴族は軽く三桁に達し、兄妹にひとりの犠牲も出さぬ奇蹟は、辺境の人々にあまねく流布している。  同時に、その冷酷非情さも。  ある一件で雇われる吸血鬼ハンターたちは必ずしもひとり、一グループとは限らない。失敗に終わったときの貴族の返礼を考え、当事者は数名、ないし数個のグループを雇うのがふつうだ。  マーカス兄妹は常に最後まで生き残った。  彼らだけが。  行動を共にし、あるいは袂をわかったグループも個人も、ひとりとして、生還しなかったのである。  その死体も見つからぬため、貴族に殺害されたというマーカスたちの証言を信じる他はなかったが、噂はやがて噂を呼び、今やこの兄妹の頭上には、忌わしい疑惑の影が渦を巻いているのだった。  それはそれとして、ハンターとしての実力は誰も疑いようがない。彼らだけで滅ぼした貴族もまた厖大な数に上るからである。  プロのハンターたちが、彼らの名を聞き、または口にするとき、嫌悪の情とともに畏怖の念を欠かさぬのは、ひとえに、その実力と身につけた秘技に対する脅威ゆえであった。  恐らく兄妹たちも、自分たちの名を淡々と語れる男は初めてであったろう。 「おめえ——」  不意に巨漢——ボルゴフが奇妙な表情をつくった。 「——いや、あんた……その面構え、青いペンダント——聞いたことがあるぞ。一〇年も前に、ある村の長老から、この辺境で、おれたちに匹敵するハンターがひとりだけいると聞かされた。たったひとりで、ことによったらおれたち全部を合わせたより強いとか……あんた、まさか……」  答えず、若者は背を向けた。  恐るべき凶人たちが、そこにいないとでもいう風に。 「ま、待ちなよ、おい」  と六角棒が呼んだ。 「おれたちゃ、爺さんの娘をさらった貴族を追う。組まねえ以上、おめえも敵だ。いいのかい、それで!」  答えはなく、馬と人影は闇に呑まれた。 「行かせちゃっていいの、兄さん?」  憤然と言ったのはレイラだが、ボルゴフはそれも耳に入らぬように、 「ダンピール……あいつがそうか……」  と痴呆みたいな顔でつぶやいた。この男がこんな声を出すのを弟妹は初めて聞いた。  そして、ある不思議な名も。 「おれの身を竦ませた男、初めて会ったぞ……D」  わずか二日のうちに惨劇と大殺戮が連続したヴィシューヌの村から北へ五十キロ。  狭い森中の道を、一台の黒い馬車が突っ走っていた。それを引く六頭の馬も黒く、御者台の御者もまた黒ずくめの、闇から生まれたような一台であった。  馬たちへ仮借ない鞭の打撃を浴びせながら、御者は時折、上空を仰いだ。  降るような満天の星である。  見上げる顔にその輝きが明滅するかのようであった。  御者の秀麗な顔がふっと曇った。 「星が動いた。あれが私……追ってくる……六つも」  闇の中で、その眼が爛々と光を放ち始めた。 「それも、ただの追っ手ではない……どれも凄まじい技倆の持ち主……中でもひとつ……」  そして、御者は興奮を抑えかねるかのように、御者台へ仁王立ちになると、足元の黒い車体を振り返った。 「渡さんぞ。誰にも渡さん」  見開いた眼から光が溢れた。それは血光であった。  けたたましいが単調な車輪の音に、突如、乱れが生じた。  秀麗な顔に動揺が走ったとき——  バン! と音をたてて右側の車輪が車軸からはずれた。  風が唸った。  馬車は大きく右へ傾き、もうもうたる砂煙をあげながら、横転した。  信じ難いものは、御者の体術であった。  自ら手綱を離して宙に舞った彼は、巧みに身をよじってバランスを整え、一枚の黒い布のように、馬車から数メートルの位置へ着地していたのである。  馬車へ駆け寄る顔は、不安と絶望に満ちていた。  狂ったようにドアを開け、内側をのぞき込む。不安は安堵に変わった。  大きくため息をつき、彼は、十メートルほど前方に転がっている特殊合金製の車輪へと近づいた。 「早速、悪運が舞い込んできたか……」  憮然としたつぶやきを放ち、車輪を軽々と持ち上げると馬車に歩み寄り、再び天空を仰いだ。低い声で—— 「じき、夜が明ける。『避難所』まで歩くとして、修理は夜からか。——|彼奴《きやつ》らが追いつくには十分な時間だ」  暗黒の彼方にうっすらと、ジグソーパズルの端みたいな稜線が浮かび上がる頃、二人は馬を停めた。  小高い丘の上である。 「夜半に馬飛ばすなんざ、兄貴も厄介な真似させるぜ。物騒で仕様がねえ」  と言いながら、黒ずくめの男が軽く右手を振った。闇より濃い染みが足元の青草を震わせる。  青く息づいてきた明け方の闇なのに、この男ばかりは黒々と夜の名残をまとっているようだ。  黒いシャツに黒ズボン——マーカス兄妹の四男、カイルである。右手ばかりか胸や肩に汚点のように残る黒い粒は、夜の魔物たちを斬り崩しつつここまでやってきた返り血か。 「そう言うなって兄貴も言ってたろ。あの若造、ただのハンターじゃねえ。おまえも噂は聞いてるだろうが」  粗暴な弟をなだめるように言った男の背中から、黒い棒が生えている。次男のノルトであった。 「へっ。ダンピールだってか?」  カイルは吐き捨てた。 「貴族と人間の混血。吸血鬼ハンターとしちゃ最高だろう。だが、忘れちゃいけねえ。おれたちは、本物の貴族を血祭りにあげてきたんだぜ」 「そらま、そうだ」 「混血なら、貴族よりゃおれたちに近い。なにを恐れることがある。まして、奴に出し抜かれねえよう、夜も構わず走れだなんぞ、兄貴もヤキがまわったな。おれたち以外、辺境の森ん中を、夜っぴて馬を飛ばせる奴がいるものか」  辺境の夜の森は魔獣の巣だ。  貴族の衰退とともに、その数も少なくなったとはいえ、夜明け前、森の中を動くのは、よほどの阿呆か、豪胆と実力を兼ね備えたものたちに限られる。彼らのように。  先刻出会った若者に出し抜かれぬよう夜の疾駆を命じた長兄に、カイルが反発するのは、このためであった。  その彼ですら、この丘にいたるまでには数多くの生物に狙われ、夜明け前になんとか辿り着けたのは、以前、この付近を通りかかった折、森を脱け出す近道を知っていたからにすぎない。 「そいつはどうかわからねえが」と、四男よりは考え深そうなノルトが皮肉っぽく言った。「奴は、おまえの円月刀をはじき返した男だぜ」  きっと、カイルが次兄をにらみつけたとき、ノルトの眼が光を放った。 「馬だ——まさかと思ったが」 「………」  確かに、今二人が抜けてきた森の奥から、鉄蹄の響きが近づいてくる。 「おれたちゃ、先回りする道を知ってたからいいが、奴ぁ……」  二人が顔を見合わせたとき——  眼下の林の一角から、闇を突き破るようにして、ひとつの騎馬が現れた。一気に街道へと向かうその姿は、闇よりもなお暗いかと思われた。 「奴だ!」 「逃がさねえ!」  二人の馬の腰が激しい音をたて、蹄が大地を蹴った。  猛烈な勢いで黒衣の影に追いすがる。夜の魔だろうと捕縛するのは難しいと思える疾走ぶりであった。 「兄貴の命令だ。おかしな真似はするなよ!」  一馬身ほど先行したカイルの背に、ノルトの声が飛んだ。  Dに先回りされては困るが、そうなりかかっても、無闇に手を出すな。——ボルゴフはいつにない強い口調でこう命じたのである。  とはいうものの、カイルの胸には憎悪の炎が燃え狂っている。単に兄妹一の粗暴凶悪な|性質《たち》というだけではない。彼は必殺の円月刀をDにはじき返されている。力のみを信じる若者にとって、耐え難い屈辱だ。Dに対する感情は憎悪を通り越して殺意そのものに変じていた。  カイルの右手が腰の円月刀に伸びる。  だが——  二人は眼を瞠らねばならなかった。  追いつけないのだ。  さして自分たちと変わるとも思えぬ速度の騎馬が、その差を縮めるどころか、ぐんぐん遠ざかっていくではないか。 「野郎!」  叫んで馬を蹴る足に力を込めても、敵は黒コートの裾を翻しつつ風を巻いて疾走し、豆粒のように小さくなり、やがて視界から消えた。 「畜生。化け物め!」  あきらめて馬の足を停め、人影を呑んだ街道の端へカイルは炎の瞳を注いだ。 「せっかく夜っぴて駆けた挙げ句がこのざまか——」  ノルトの声も苦い。 「あれじゃ、尋常の手段では追いつけねえ。ここで兄貴の到着を待とう」    3  周囲で風が渦巻いた。  頭髪がなびき、|旅人帽《トラベラーズ・ハット》の広い鍔が墨汁のように流れて見える。  優美な額で、秀麗な鼻梁で、夢のように砕け散る銀粒は月光であった。空気はすでに蒼味を帯びているのに、この若者に射す月光の眼差しは、闇夜のそれのごとく明るい。  特別仕様のサイボーグ馬ともなれば、平均時速百キロの疾走も可能だが、この騎馬のスピードもそれに劣らない。  どこにでも見られる|平凡《スタンダード》な馬種に、このような魔力をかけ得る騎手とは——  街道は平坦な草原の彼方に消えている。  不意に騎手は手綱を引き絞った。  馬の上体が大きく右へ傾き、急制動をかけられた前脚が小石と土を撥ねとばす。  惚れ惚れするというより、薄気味悪くなるほど鮮やかな停止ぶりであった。  再び月光が、騎手の肩に背に|蕭々《しょうしょう》と降りかかる。  黒衣の影は音もなく地に降りた。  身を屈め、じっと小石と土の連なりを見つめていたが、すぐ立ち上がり、横手に広がる木立の奥に顔を向けた。  月光すら恥じらうのではないかと思われる美貌の主は——Dである。 「ここで、正常なルートをはずれたか。奴、何を企んでいる?」  さして疑問に思っている風もなくつぶやくと、また馬に跨り、木立の列めがけて馬を駆った。  後には月光だけが細い道を白々と照らし、遠く響いていた蹄の音もやがて消えた。  月だけは、その地点がほぼ六時間前、街道を辿ってきた黒ずくめの馬車が方向を変えたところだと知っている。昼間、幾台もの電気バスや自走車がつけた車輪の筋から、彼はめざす馬車の轍を見抜いたのだろうか。  月はやがて蒼い空中に融解し、代わりに太陽が昇った。  それが中天にかかる少しまえ、疾走をつづけたDと馬は、幾つめかの森を抜けた一地点で、再び足を停めたのである。  眼の前の地面が大きく乱れている。  車輪のひとつを失った馬車が横転したところである。  まる一昼夜の遅れを、Dは半日で取り戻した。陽光の下で貴族は眠る|運命《さだめ》とはいえ、マーカス兄妹はまだ遥か彼方だ。速度も正確さも恐るべき人馬一体の追跡行であった。  しかし、馬車は何処へ消えたのか。  Dは馬から降りず、掘り返された土を眺め、軽く馬の横腹を蹴った。  今までの疾走ぶりとは打って変わった緩やかな歩みで、前方の丘へ向かう。  丘ともいえぬ土の盛り上がりであったが、その頂点に立ち、下方を眺めたDの眼の前に、場違いな構造物が現れたのである。  それは巨大な|鋼《はがね》の箱と見えた。  縦三メートル、横は十メートルにも達し、高さも三メートルを越す。  燦々と降り注ぐ陽光に、黒い表面はまばゆい炎を放った。  黒い貴族の言った「避難所」がこれであった。  不死身の吸血鬼たちといえど昼は眠らねばならぬ。彼らの科学力は、陽光に対する様々な抵抗薬を生み出していたが、それを満身に浴びた際の地獄の苦痛だけは克服できなかった。  細胞の一片一片が燃え上がり、肉も血も腐敗し、体組織すべてが溶け崩れる苦痛——|古《いにしえ》の伝説は地上の覇者にも服従を強制したのである。  肉体までは分解させずに済む|段階《レベル》へ到達したものの、直射光を十分以上浴びた被験者の多くは苦痛のため発狂し、五分以上浴びたものは代謝機能を破壊されて廃人と化した。それは、後にいかなる手当てをもってしても回復しなかったのである。  貴族たちの全盛時代はそれでもよかった。  辺境の隅々まで張り巡らされた超高速ハイウェイ、リニア・モーター・カー等の交通網は常に事故ゼロを誇っていたし、「都」とその周辺に設けられた一大エネルギー発生機構は、古代を真似たバス、貨車の類に到るまで、無限のエネルギー供給をつづけていたのである。  そして衰退が始まった。  押し寄せる人間たちの手で、貴族の創造物は次々と破壊され、文明はその名に値しない残骸と化した。  完璧な防御体制を敷いたエネルギー機構も、数千年に亘る人間側の執拗な攻撃の前に潰え去ったのである。  都市部はともかく、|辺境地区《セクター》における貴族たちの交通手段は完全に失われた。この日あるを予期し、私的な交通網を担当地区に敷設しておいた貴族たちも多かったが、彼ら自身がその維持に情熱と意欲を失っては如何ともしがたかった。  いまなお、その一部は、暁の露に濡れた草原の片隅に銀色のレールをさらし、あるいは地下の大トンネルのどこかに、無人の超高速推進器の屍を留めている。  唯一の交通手段が馬車のみとなる前に、レーダー・コントロールの不能、エネルギー供給停滞等の事故は多発していた。  貴族たちの科学兵器を奪い、また、独自に開発した武器で車体の防御を破り得る人間たちにとって、交通機関の中で硬直した昼の貴族たちは、格好の餌食であった。  余力を留めていた「都」の政庁は、辺境からの激しい要求に基づき、その交通網の要所に彼ら専用の防御機構を設けることにした。  これが「避難所」である。  その特殊鋼板の厚さはわずか一ミリにすぎないが、小型核爆弾の直撃にも耐え、数々の防御装置が、棒杭とハンマー片手に近づいてくる虫けらどもを排除する。  何よりも、この避難所の役割を完璧とするものは—— 「入口はなしか」  Dが馬上からつぶやいた。  その通り。  白い光沢を放つ黒い壁面には、髪の毛ひとすじほどの切れ目も存在しないのであった。  天空を仰ぎ、Dは静かに丘を下り始めた。  春の快い温度はともかく、容赦なく照りつける日射しは、ダンピールのDにとっても苦痛この上ない。  夜も貴族と互角に戦い得るが故のダンピールではあったが、それが吸血鬼ハンターの名称を冠せられるには、昼の灼熱地獄にも平然と耐える気力を必要とした。  Dが近づくにつれて、何やら周囲の空気にかすかな唸りがこもり始めたが、それはすぐ、陽光に散じた。  Dの胸元でペンダントが青く青くかがやいている。貴族の電子兵器をすべて作動不能にする神秘の色であった。  屹立する黒い壁の手前で馬を降り、Dは鋼に左手を当てた。  ひんやりとした感じが伝わってくる。特殊鋼自体の有する温度であろう。外部からのあらゆる熱波、電磁気を通さぬ構造は、分子が原子を兼ねているのだろうか。  ゆっくりとDの手は滑らかな表面を滑っていった。  正面の壁を終えると、右側面。その表を撫で終えるのに三〇分を要した。 「あーあ」  裏側の壁に移ると、鋼と手のひらの間から、退屈この上ないといったため息が洩れた。聞くものがいれば、眼を丸くしかねない奇現象だが、Dは黙々と作業を続けている。 「しかし、しぶとい金属じゃな。内部の様子は、まだ曖昧模糊としておるわい。それでも大体の機構は想像がつく。内側の超核炉が金属自体にエネルギーを送っておるのじゃ。核炉を破壊せねば壁は破れんし、そのためにはまず壁を破らねばならん。どうじゃな? 鶏が先か、卵が先か?」 「|内部《なか》には何人いる?」  Dが撫でつつ訊いた。 「二人じゃの」  返事はすぐにあった。 「男と女。貴族か人間かはわしにもわからん」  うなずきもせず、Dはやがて作業を終えた。  残るは左側のみ。  しかし、一体彼は何をしているのだろうか。声の内容からすれば、「避難所」の内部を探っているようだが、外壁を破らなくてはそれも無意味だ。一方、「声」は、外壁の破壊は不可能と告げている。  鋼のほぼ中央で、左手が停止した。 「あったぞ」 「声」が淡々と言った。  Dの動きに遅滞はなかった。左手を離さず、一歩後退し、右手を背刀の柄にかける。  陽光が刀身に吸い取られたかのようであった。  一刀を握った右の手を大きく引き、Dの眼は、壁の一点に集中した。左手の親指と人さし指のちょうど中間に。  そこに何が「あった」のか。  引いた切先と鋼の間に、白い、凄まじい殺気が凝集した一刹那——  黒壁を白光が貫いた。  迸ったのはDの剣である。いかに鋭い突きといえど、特殊鋼の外壁を貫けるはずがない。だが、優美な曲線は半ばまで不動の鉄壁にめり込んでいた。  そこが入口であった。眼には見えなくても、扉と壁の境目に線が刻まれていた。Dの左手の神秘な力はそれを探り当て、突いたのだ。しかし、いかに切れ目といえど、ほぼゼロに等しい太さの線へ刀の切先を滑り込ませるとは……。 「おおっ!?」  という声は、内側からではなく、Dの左手から聞こえた。 「こいつぁ、驚きじゃ。片方は人間じゃぞい」  Dの表情がかすかに動いた。 「“時だましの香”か?」  と訊く。貴族たちが考案した昼を夜と錯覚させる香料であった。 「わからんが、もうひとりは動かん。死人じゃな、昼だけの」 「娘は無事か」  Dはつぶやいた。一度くらい血は吸われているかもしれないが、それならば、吸った張本人を斃せば人間に戻る。だが、Dの面貌を一瞬、昏い翳がかすめたのは|何故《なにゆえ》か?  柄を握った手の筋肉がじっと膨れ上がる。  どのような神技が働いたのか、水平に倒れた刃はわずかに回転し、鋼の表面にぴりっと細い筋が走った。  青い光が滲み出してくる。  ふと、Dの動きが停まった。  静かに後方へ顔を向ける。冷たい瞳に感情の色はない。 「意外に早かったな」  と声が揶揄するように言った。 「それに、意外な奴が来た」  間もなく、かすかなエンジン音が森の彼方から近づいてきたかと思うと、土手の頂に真紅の影が跳ね上がった。  重々しい音を立てて傾斜すれすれのラインで停まったのは、単座式の|戦闘《バトル》カーであった。  グロテスクなほど巨大な四個のノーパンク・タイヤに長方形の鉄板を載せ、大容量の原子力エンジンと|操縦装置《コントローラー》をぶち込んだ乗り物である。  貴族のメカを入手した人間が作りあげた品で、およそ美意識からは遠い外見を有している。鋲打ちされた鉄板で護られた核炉からは、溶接の痕が目立つエネルギー・パイプが蛇みたいにひん曲がりつつ後部のエンジンとつながり、操縦盤も|棒状《バー・タイプ》ハンドルも無造作に床から突き出ている。カマキリの脚みたいに空中で湾曲し、タイヤと連結したピストンも、無害な放射性廃棄物のせいか、他の部品同様、赤黒く汚れていた。  注目すべきは、しかし、車体の有り様より、その武装と|操縦者《ドライバー》だったろう。  後部エンジンの右脇から大きく延びた七〇ミリ無反動砲の銃口は、黒々とDをねめつけ、反対——左端には円型の二〇ミリ・ミサイル・ポッドが宙をにらんでいる。ミサイルには無論、体熱探知器が備わり、獲物を待つのは確実な死だ。そして物騒にも核炉の上に固定され、青い宝石をはめ込んだような銃口を示しているのはペネトレイター——貫通砲だろう。  これだけでも、標準の|戦闘《バトル》カーにはない重装備だが、核炉とエンジンの大きさからいって、この車は優に時速百二十キロを絞り出す。安定走行率九九パーセント、直径二センチのワイヤー・サスペンションによっていかなる悪路も走行可能。地を駆ける小さな巨獣であった。  操縦席から真紅の人影が立ち上がり、ごついゴーグルを撥ね上げた。燃えるような青い眼がDを射た。金髪が風に黄金の色をつける。マーカス五人兄妹の末娘、レイラであった。 「また、会ったわね」  陽光に朱色のつなぎが燃え上がって見えるのは、全身から放たれる敵意のせいだろうか。唸りつづけるエンジンに合わせて震動する身体も、D憎さに震えているようだ。 「うまく兄さんたちをまいたつもりでしょうけど、あたしがいる限り、マーカス兄妹の|先《せん》は取れないわよ。いいところで出会ったわね。獲物はその中にいるの?」  娘は貴族を獲物と呼んだ。並々ならぬ自信と敵愾心の吐かせる言葉であった。  Dは一刀を手に彫像のように立ち尽くしたままだ。 「おどき」  とレイラは言った。命令口調である。 「壊れた『避難所』しかなかったのは、獲物には不運、あんたにゃ幸運だったけど、運はこっちに回してもらうわ。生命が惜しかったら、素直に尻尾をまくことね」 「惜しくなかったらどうする?」  Dの静かな声が、レイラの顔に、服にも負けぬ朱を上らせた。 「なんですって……レイラ・マーカスと|戦闘《バトル》カーを相手にする気なの?」 「おれの生命はふたつある。どちらかひとつを持っていけ。取れるものならな」  初めてのときと変わらぬ淡々たる声に、レイラは沈黙した。この男まさりの娘がためらったのである。 「避難所」の壁を貫いた一刀がDの秘技によるものだとは、彼女はまだ気づいていない。そんな芸当のできる生物がいるなど、最初から思っていない。Dの実力を知らぬまま、レイラのためらいは、彼女自身も気づかぬ心の動きが生んだものであった。  前方の黒い商売敵に、彼女はぞっとするほどの痺れを覚えたのだ。不可思議な麻薬に、骨の髄まで冒されるような危険な麻痺を。そんな心の動きを拭い取るように、レイラはぐいとゴーグルを引き下げた。 「気の毒にね。これがマーカス兄妹のやり方よ」  真紅のつなぎが操縦席へ収まると同時に、エンジンが怒号した。  |消音器《マフラー》をわざと切ったのは、相手の気をくじくためである。  両手が操縦|棒《バー》にかかった瞬間、巨大なタイヤが草をすりつぶした。  丘を下るというより、跳躍するように飛び出し、着地と同時に大地を蹴った。発車まで十分の一秒とかからない。機械仕掛けとは思えぬ敏捷さであった。  一気にDめがけて突進する。  Dは動かない。  凄まじい音が空気を震わせ、生臭い匂いがそこに混じった。匂いは煙を伴っていた。  灼け焦げたタイヤは白煙を噴きながら、Dの身体の数センチ手前で停まっていた。 「骨身に沁みたろう——お行き!」  ヒステリックなレイラの叫びは、またも自分の心の動きを覆い隠すためのものであった。Dを轢き殺すつもりでアクセルを踏み込んだ足が、間一髪、ブレーキを|圧《お》したのだ。  しかし、なぜ、Dは逃げなかったのか。  まるで、娘の胸に立つさざ波を看て取ったかのように。  彼は無言で刺さった剣を引いた。あっけなく、それは抜き取られた。流れるような手さばきで音もなく鞘に収め、Dは身を翻した。 「そうとも。|最初《はな》っからそうすりゃあよかったのさ。カッコつけて、手間かけさせやがって!」  Dの姿が丘を登り、その頂に消えるまで、レイラは見送った。猫そっくりの瞳が緊張に細まったのは、次の瞬間であった。  低い唸りとともに、大地は大きく震動した。一トンを越す|戦闘《バトル》カーが軽々と跳ね上がり、地面に激突して、また跳ね上がった。  Dが去ったことで、「避難所」の防御機構が作動しだしたのだ。  およそ、静止など不可能と見える車上で、レイラは平然と立っていた。片手は操縦|棒《バー》に当てているが、それだけだ。狂ったダンスを踊る車体と、つねに垂直であった。両足の底が車の床に貼りついているかのようであった。  空中でレイラは席についた。  ぐおっ! とエンジンが咆哮した。後方のノズルが青い原子炎を噴き出し、エンジン横のエグゾースト・パイプから処理済みの放射性燃料煙が飛ぶ。  |戦闘《バトル》カーは空中で発車した。  着地と同時に、核炉上のペネトレイターが旋回し、「避難所」をポイントする。揺れ動く大地に逆らわず、衝撃の加わる方向へ跳ね飛びながら、車体は不自然な角度に傾いてはいない。  空気が青く染まった。 「避難所」の天井が開き、レーダー制御と|思《おぼ》しいレーザー砲が出現するや、火線を迸らせたのである。  それは空中の車体をかすめ、地の一角を溶岩と変えた。  レーダーに意志があれば、大いにあわてたことだろう。つづく二撃目も三撃目も、精確無比を誇る火線は空しく標的の前後左右を通り抜けたからである。  レイラの|運転技術《ドライビング・テクニック》は、電子機器さえ凌ぐのだ。  彼女は物ごころついたときから、兄妹の父親に、メカを自在に操る能力を磨くべく育てられた。父親は遺伝子を操作する初歩的な技術を心得ていたのかもしれない。  皮肉にも、レイラの素質は乗り物に対してのみ開花した。寿命の到来したサイボーグ馬も自走カーも、彼女の手にかかれば確実にもうひとつの生命を与えられた。「エンジンとタイヤを与えれば、車をつくっちまう」と父は感嘆した。操縦技術はたちまち兄たちを凌ぎ、長兄のボルゴフのみが辛うじて比肩し得る有り様であった。  そんなレイラが一台の|戦闘《バトル》カーを愛した。機会をみては町のスクラップ工場や貴族の遺跡を巡り、こつこつと部品を集めて組み立てたものだ。文字通り、寝食を忘れてレイラは打ち込んだ。食事もとらず、憑かれたように工具をふるうその姿に、休みを取れと勧めたカイルはスパナを投げつけられ、その痣がまだ左肩に残っている。  冬の日の早朝、水のごとく仄光る暁の光の中で|戦闘《バトル》カーは完成した。  それから二年。自ら腹を痛めた子のように車を|愛《いと》しんだレイラは、ほとんど奇蹟といってもよい操縦技術を身につけていたのである。  その具現が、丘陵に囲まれた一角で繰り広げられていた。  電子装置の攻撃をことごとくかわし、空中で方向を変えた車に、レーザーの照準装置が数分の一秒長い|照準時間《ポイント・タイム》を要求した刹那、ペネトレイターが銀色の線を放出した。  それは一種の液体金属であった。  マッハを超えるスピードで射ち出されるや、分子構造に変化が生じ、長さ五メートルもの長槍と化してレーザー砲の機関部を一気に刺し貫いていたのである。  電磁波の触手を四方へ飛ばしてレーザーは沈黙した。  ペネトレイターの砲口を「避難所」の壁へ向けるレイラの口元には、血笑が浮かんでいる。  突然、照準がぶれた。  正確には、車が下へ沈んだのである。 「避難所」を囲む一帯の土地が軟泥と化したように、車体はその前部から土中へと没しつつあった。  緊張したレイラの相好が崩れた。不敵な笑いであった。  後方のノズルが鈍い音とともに回転し、火を噴いた。炎は車体脇を通過し、その鼻面を呑み込みつつある土砂を撥ね飛ばした。タイヤがフル回転に移る。  土煙を巻き上げ、震え、|戦闘《バトル》カーは後部から空中へ躍り出た。  地上へ達する前に方向を丘へと転じ、ペネトレイターの砲身は逆へと回転して銀光が「避難所」の壁を直撃する。  それはふたつに折れ、同時におびただしい光の粒と化して飛び散った。  レイラの技倆もこの破片の網を免れることはできまい。  だが——  硬質な地面に着地した|戦闘《バトル》カーは、そのまま、襲いくる金属粒の嵐へ向かい、ぐっと車体を傾けたのである。  闇を裂く弾丸は、ことごとく車の底部にめり込んだ。  フル・スロットルでエンジンを全開し、レイラは車をひと息で丘陵の頂に押し上げた。 [#改ページ] 第二章 逃亡者たち    1  ブレーキを踏んだレイラを、美しい黒影が迎えた。 「見事なものだ」  淡々たるDの口調であった。  背筋を熱とも冷気ともつかぬ感覚が走るのをこらえ、レイラは敵意を剥き出しにした口調で、 「まだ、いたの? さっさと行かないと、ほんとに轢き殺すわよ」  と脅した。  それには答えず、 「傷の手当てをしたらどうだ?」  Dは静かに言った。 「余計な——お世話よ」  吐き捨てたレイラの語尾に苦痛が広がると、彼女は右の胸を押さえ、操縦席の上で、がくりと前へのめったのである。  |戦闘《バトル》カーの底板をぶち抜いた金属片の一発を胸に浴びていたのだ。  素早く歩み寄り、Dは軽々とレイラを抱きかかえて、近くの木陰へ横たえた。  ちらりと大空と「避難所」に目をやり、レイラのやってきた方向に耳を澄ます。 「来ぬな」  と左手のひらから声が聞こえた。 「奴らの仲間はまだまだ後方におる。どうする気じゃ?」 「放ってはおけまい」 「死に損ないの手当てなど後にするがいい。目標は今、身動きもできず、鉄の箱の中におる。早いとこ片づけ、娘を送り届けることじゃ。あの分なら、たとえ血を吸われておったとて、貴族を斃せば元に戻る。本人も大喜びじゃ」  妖気漂う美貌が束の間曇った。 「喜ぶ? ——人間に戻ったことをか。それとも——」 「何をおかしなごたくを並べておる? 春の日に頭のネジもゆるみ出したか。今なら、あとひと押しで苦もなく奴[#「奴」に傍点]を斃せる。じき、陽も暮れるぞ。商売敵など放っておけ」  声の苛立ちを証明するかのごとく、空はやや青みを帯び始めている。今の季節なら日没は500|N《ナイト》。あと二時間足らずだ。  それでもDは無言でレイラのつなぎの胸を押し開いた。  服の外からでもはっきりとわかる白い隆起が現れた。左側の乳房の上の肉が数カ所、外側へはじけている。  血で染まった傷口はすでに青黒く腫れ上がっていた。白い肌に奇怪な肉腫がいくつも盛り上がっているかのようであった。  Dは立ち上がり、馬の鞍から救急セットを取って戻った。  蓋を開けると、眼に動揺が走った。 「ふわふわふわ」  と声が嘲笑した。 「そのセットを購入したのはいつのことと思っておる。一度も使わず放りっぱなしで、成分はとうの昔に変化しておるわ。死ねん奴[#「死ねん奴」に傍点]はこれだから困る」 「全くだ」  相変わらず棒読みのごとくつぶやき、Dはレイラの|戦闘《バトル》カーを探り、薬箱を取り出した。念のためか、車の床の上で広げ、すぐ蓋を閉じた。 「どうした?」 「ない。薬品はほとんど空だ」 「補充しとらんのか? 呑気なハンターがあったものじゃ」  負傷が職業病ともいうべきハンターにとって、医薬品の補充は武器の調達と等しい重要事項である。町や村へ着けば、食料品店や酒場より、まず武器商店や薬局へ飛び込むのがハンターの習性だ。  それがない。  ベテラン・ハンター中五指に数えられるマーカス五兄妹の妹が、だ。  Dは再び娘のかたわらにしゃがみ込んだ。  呼吸はやや浅い。体内の破片は内臓を傷つけてはいないようだが、このままでは破片の毒素で破傷風を引き起こす恐れがある。いや、すでに射入孔と射出孔は、赤黒く腫れ上がっているではないか。 「どうする気じゃ? わしはおまえ専用。人間には何もできんぞ」 「わかっている。人間には人間のやり方しかあるまい」  Dは腰の戦闘ベルトから一本の|《ひょう》を抜いた。  左手をその切先にもってゆく。 「何をする?」 「この娘が死んだら、おまえとは縁切りだぞ」 「くそ。脅かしおって」  声が終わらぬうちに、青白い炎がの先端を包んだ。  鋭い切先がみるみる灼熱し、真紅に変わると、Dは左手をレイラの額に近づけた。  大きな眼が開いた。 「何をするの?」 「傷を焼き取る。痛みはないようにするのだ」 「ご親切なこと。感謝するなんて思わないでよ」 「しゃべるな」  近づけた手から、レイラは顔をそむけた。 「あんたがどんな妖術を使うか知らないけど、眠ってる間に身体をいじくられるなんて真っ平よ。あたしは起きて一部始終を見てる。おかしな真似をしたら、ただじゃすまないわよ」  Dは構わず左手を乗せた。 「嫌ー!」  レイラの声は悲鳴に変わった。 「やめて、お願い! このままやってよ。お願い!」  哀願であった。Dを見つめる眼に光るものが盛り上がってきた。それは凄惨な記憶を物語っていた。  無言で手を引き、Dはコートの裾を裂き、その切れ端をレイラの唇にはさんだ。  麻酔はない。舌を噛まぬ用心である。  今度はおとなしく従った。  小さくうなずいたのは、礼のつもりなのだろう。  やがて、暗い木陰に生々しい匂いと、低い呻き声がこもり始めた。  周囲には|黄昏《たそがれ》が満ちているようだった。  彼は眼を開いた。  細胞のひとつひとつを封じ込めていた呪縛が潮のように引いてゆくかけがえのない快感。  彼の最も好むひとときであった。  双眸があわただしく横へ流れた。  少し離れたベッドの縁に、娘はひっそりと腰を下ろしていた。  かけたときの姿のまま、身動きひとつしていないのではないかと思われた。  白い花のような可憐な顔が彼の方を向いた。 「どうしたね?」  絹のクッションを敷きつめたベッドに横たわったまま彼は訊いた。娘の頬に涙の筋を見たのである。 「外に誰かいます」 「ほう。もう来たか」  緊張した声の奥に、不動の自信があった。いかに腕利きの|吸血鬼《バンパイア》ハンターであろうと、闇に立ち上がった貴族の敵ではない。  軽やかに鋼の床へ降り立ち、扉の方を見たその眼がかっと剥き出された。  糸のような銀の筋が床に墜ちているではないか。扉の上端に刻み込まれた隙間から忍び入る月光だと知って、彼は娘を振り返った。 「昼間、誰かが剣で開けたのです。きっと、父さんが頼んだハンターたち……」  膝を覆うブルーのワンピースの上に、彼はあるものを認めて眉をひそめた。  銀づくりの瀟洒な短剣であった。彼の腰についていた品だ。  何に使うつもりだったのか。  彼は少しの間、それに目を注ぎ、それから外の様子を見るため、壁面のTVアイに近づいていった。  焼きつぶした病巣をえぐり取り、新たに熱したで消毒すると、レイラはとうとう失神した。 「これで一応心配はないが——」と声が言った。「すでに細菌が体内に侵入しておる。じき、猛烈な寒けが襲ってくるぞ。それさえ乗り切れば、後は安らかに眠れる。ここまで来たらもう、ついでじゃ。とことん面倒をみてやれ」  呆れ果てたような響きに耳を貸す風もなく、Dは「避難所」と青みを増してくる空へ交互に眼をやり、を地面に突き刺して冷却すると、ベルトに収めて立ち上がった。 「そろそろ奴が来る時刻だ」 「冷たい奴じゃな」声は憤慨したように言った。「時間がくれば、治療も終わりか。悪徳医師のような真似をするな」  その声が不意に止まった。  Dは一歩進んだ。  青い光が澱んだような「避難所」のドアが音もなく内側へ退いていく。  振り返って、レイラを見た。  すぐに戻した眼は凄絶な光を湛えていた。  最強の吸血鬼ハンターがそこにいた。  夜風に|蕭々《しょうしょう》とコートの裾をなびかせ、Dは丘を下った。  待つほどもなく、六頭の黒馬が次々と——それにつづいて黒塗りの馬車が現れた。修理は「避難所」内部のメカが成し遂げていたらしい。  御者台から黒衣の若者が黙然とDを見下ろしていた。 「どけ」  と言った。不思議と静かな声であった。 「人の生命を金に変える下司といえど、無駄な生命のやりとりはしたくない」  Dの眼に妙な色が流れ、すぐに消えた。 「娘を返してもらおう」  殺気も気負いもなく、淡々とDは言った。  男の眼が徐々に赤く染まっていった。 「私は欲しいから奪った。おぬしもそうするがいい。夜、貴族を相手にできるなら——」  闇が凝結した。  色も光もそのまま、二人を含む空間だけが凍りついたと思われた。  ぴしっ! と肉をはたく音が静寂を破った。  声もなく、二十四本の足が大地を蹴る。  取るに足らぬハンターを轢き殺すつもりか、それとも勝手に|退《の》くと思ってか、殺到する六頭の馬は、しかし、Dの面前数メートルの地点で突如、棒立ちになった。  驚きの声はひとつ。 「マイエルリンク——!」  馬車の中から迸る女の声と知った刹那、Dの身体は魔鳥のごとく空中に舞った。  悲痛な叫びに気を取られ、一瞬反応の遅れた若者の頭上へ閃く銀光。  闇が宝玉を散らせたような火花につづき、美しい金属音が尾を引いた。  Dの必殺の一刀を、若者——マイエルリンクは、左手の甲で受け止めたのである。  そこには|鋼《はがね》の手甲が巻かれていた。  ぶん! と風を切って脇腹を襲う三条の光を、こちらは身をひねってかわし、Dは音もなく反対側の地面に降り立った。  馬上からDへ。  Dから馬上へ。  凄まじい鬼気の交換に、馬たちはいななき、馬車は激しく揺れた。  男の右手の指から長い鉤爪が伸びていた。  爪——いや、夜目にも黒々とかがやくそれは、明らかに鋼の光沢をもっていた。  危機が迫ったとき、平凡な爪は鋼鉄の凶器に変わるのであろう。 「その顔、その技倆——名前を聞いたことがあるぞ。どんな貴族も蒼白となる名をな。おぬしがDか——」  |戦《おのの》きと感嘆が交錯するマイエルリンクの声に、 「おれも聞いたことがある」  とDは静かに応じた。 「貴族の中でただひとり、支配される民がその徳を讃える若い領主がいると。——その名は確かマイエルリンク」 「一度会ってみたかったぞ。どんな形にしろ」 「いま、ここで会った」 「行かせてくれぬか? 私は人間に何もせん」 「娘をさらわれ、おまえの同類にされた父親にそれを言え」  マイエルリンクの表情に苦渋が充ちた。  すっとDが身を沈める。 「はっ!」  マイエルリンクの掛け声とともに馬が地を蹴った。Dの脇をすり抜けて土手の斜面を駆け登る。  Dは風のように|疾《はし》った。  馬車の速度はDのそれと等しかった。  丘の頂でDは馬車の真横についた。右手をドアの|把手《ノブ》に伸ばす。  黄金の把手がふっと遠ざかった。  みるみる小さくなる馬車を見送り、Dは身を翻して一本の木立に寄った。  レイラを横たえた場所である。 「おかしな声が聞こえたの」  とおかしな声が言った。 「なまじ耳がよいのも考えものじゃな。今ごろは一仕事済んでいたかもしれん」  Dはしゃがみ込み、レイラの額に手をあてた。  火のように熱い。汗みどろの顔は苦痛に歪んでいた。体毒の影響である。このあと、間断なく襲う寒けがやってくる。  Dはためらいもせず、レイラの服を脱がした。  青草の上に、美しい裸体が広がると、 「ほう」  驚きの声が左手から上がった。 「この娘もこれでなかなか、厳しい人生を送ってきたようじゃな」  ふくよかな乳房から太腿にかけて、そして背中一面、レイラの肌は無数の切創やそれを縫った痕で覆われていたのである。  この娘も辺境の修羅に生きているのだった。  さして感慨を抱いた風もなく、Dはレイラの上に覆いかぶさった。  レイラが小さく叫び、たくましい胸にすがりついた。熱のせいで腫れ上がった唇がわななき、小さなつぶやきを洩らした。  何度も何度も。  Dの手を止めた言葉だった。  一時間後、カイル・マーカスの馬が丘の頂に辿り着いたとき、|戦闘《バトル》カーの|座席《シート》で毛布にくるまり、安らかな寝息をたてている妹の他は、付近に生き物の影もなかった。  さらに三〇分ほどして、ノルトを先頭に、ボルゴフの運転するバスが二人の前に現れた。  カイルが大急ぎでレイラを車中へ運び込む。よほど仲が良いのか、血相が変わっていた。 「だ、大丈夫かよ、兄貴。何でもいいから薬をやってくれや」  今にも泣き出しそうな凶相を、何故かボルゴフは嫌悪の表情で見つめていたが、それでもレイラの脈を取り、熱を測って、じき、うなずいた。 「大丈夫だ。一応、内臓や血液流もCTスキャンで調べてみるが、心配はいらん」  安堵のせいか床にへたり込むカイルを見据えて、 「おれに内緒で、レイラをひとりで行かせるからこんなことになる」 「わかったよ。後で鞭でも何でも打ってくれ。だけどよ、どっちがレイラをこんな目に遭わせたんだ?」  カイルの顔も元の凶暴さを取り戻していた。じっと眼を宙に据え、怒りのあまりか、口の端に噴きこぼれる泡にも気づかず身を震わせる。 「治療しなかった方だろうよ。となると、どっちでもねえかな。こんなに甘い野郎が、この辺境で今まで生き残っていられるはずがねえ」 「どっちでもいい……」  とカイルがうわ言のように言った。 「どっちでもいい。どっちも探し出して、バラバラにしてやる。手と足を別の場所にくっつけてやる。|腸《はらわた》を口の中へ突っ込んでくれるぞ」 「好きにしろ。それより、レイラのそばにゃ、誰もいなかったのか。傷から見て、レイラがやられたのは、三、四時間前だが」  ドアを開けて、ノルトが顔を出した。 「馬車の通った跡があるぜ。まだ新しい。せいぜい一時間前のもんだ。もうひとつ、蹄鉄の痕もついてる」 「となると、奴らもここでやり合い、勝負はつかなかったとみるべきだな……」  重々しくうなずき、ボルゴフはノルトに、レイラとグローベックの面倒をみろと命じ、自分は奥の部屋へ行って、何やら意味ありげな布包みを抱え、運転席へ戻ってきた。 「Dの顔を見といただけでもめっけものだ」  つぶやいて布の中から取り出したものは、直径五十センチほどの銀の円盤であった。  それを計器盤のほぼ中央に、小さな台で固定し、ボルゴフの剛毛だらけの顔は車窓から宙天にかかる月を仰いだ。  満月に近い丸い月だが、あちこち、虫に食い荒らされたように見えるのは、雲がかかっているからだ。  巨体をもたせかけると、運転席がみしりと軋んだ。  そしてボルゴフは両手を胸前で交差し、食い入るような眼で立てかけた銀の盆を凝視し始めたのである。  一分がすぎ、二分がすぎた。  寝室のベッドに横たわったレイラの側から離れぬカイルを残し、運転席のドアのところから覗き込むノルトの顔にも、ボルゴフと同じ緊張の|脂汗《あぶらあせ》が湧き出し始めた。  と——  銀盆の表面が霞でもかかったように煙ったと見る間に、そこに忽然と黒ずくめの若者の姿が浮かび上がったのである。  Dであった。  こちらに向かって何か言い、手にした手綱を引いて、馬とともに木立の間へ消えていく。  これは先日の晩、吸血鬼と化した村人たちと戦い、その後で彼らと相対したDの姿の再現であった。  そのスタイルや風貌がやや異なるのは、この像がボルゴフの記憶の中の光景だからであろうか。  自らの記憶を銀盆に映し出せる男。  これだけでも驚嘆すべき妖術というべきなのに、ボルゴフの血走った眼は、かっと天空の月を睨んだ。  否、月の下の大きな雲塊を。  その周囲は、月光を浴びて青く縁どられている。  月も雲塊も変化はない——  と見えたのも束の間、月は変わらず、雲塊の内側だけが何やらぼうっと、仄光りはじめたではないか。  ひと呼吸するあいだに、光の中に、人の形みたいな影が蠢きはじめ、二呼吸目で明確な像となった。  誰かが馬に乗って暗黒の街道を行く。  ああ、過去に見たDの記憶に従い、銀盆と月とを映写機として、ボルゴフは雲塊に、|現在《いま》のDを浮かびあがらせたのではないか。  遥か天空から見下ろすような後ろ姿は、ここから数十キロ前方の道を|疾《はし》るDのそれと、見事に一致していた。    2  Dを背後に見捨てて二時間も疾走をつづけた頃、これから十数キロに亘って直線の道路が連続すると見て、マイエルリンクは疾走する馬車の御者台から、器用に車内へ入った。  ドアを閉めると、外界の物音は断片も届かない。  娘は月光草のように革張りの椅子にかけていた。  床には絨毯が敷きつめられ、壁と天井を覆うシルクのクッションが美しい。壁から生えたような折りたたみ式の金のテーブルにはかつて美酒珍肴が並び、数十キロに亘って星間照明の輝く道を、貴族の大夜会へと走ったものだった。  だが、いまや絨毯は薄汚れ、シルクにも破れ目、ほつれが痛々しく目立ち、ネジがはずれて傾いたテーブルには銀のグラスひとつない。  磁気応用の安定回路によって、転倒しても内部の乗客だけは、そのままの姿勢を保っていられることが、この馬車の最後の|矜恃《きょうじ》といえた。  マイエルリンクの右手が動き、室内に光が満ちた。 「なぜ明かりを点けない? とうの昔に廃棄処分になってもおかしくないボロ馬車だが、それくらいの設備は健在だ」  限りなく白い歯をのぞかせる笑顔につられて、少女も笑いを見せた。薄い、かげろうのような笑いだった。  この少女の明るい笑顔を最後に見たのはいつか、彼は憶い出そうとしたがうまくいかなかった。それもこれも夢なのかもしれなかった。 「いいのです。あなたが闇の中で生きるなら、わたしもそうなりたい」 「君には陽光が似合うだろう。私はまだ、見たこともないが」  彼は少女の反対側の椅子へ向かい合って座った。 「辿り着けるでしょうか」  少女がぽつりと訊いた。 「着けないと思うかね?」 「いいえ」  少女は首を振った。村を連れ出してから初めて見る力強い動作だった。 「わたしはどこでもいいのです。あなたとさえいられれば、荒山の洞窟でも、一生涯陽の射さぬ地下の住まいでも」 「どこにいてもハンターは来よう」  玲瓏たる美貌に諦観さえ漂わせて、彼は言った。 「彼らもまたすべてを破壊せずにはおかぬ人間の仲間だ。——君は別だが」 「………」 「地上には、もはや私たちの憩いの場所はない。星々の果てに到る長い旅——辛くなったかね?」 「いえ」 「いいのだよ。君には最初から無理だったのかもしれん。温室のたおやかな花は、自然の暴威には耐えられぬものだ。私のわがままによくついてきてくれた。別の道を辿るのもよかろう」  青白い手を、少女の白い手が押さえ、細面の顔がやさしく左右に振られた。 「わたし行ってみたい。星々の間へ」  ああ、この二人の道行きが、無惨な誘拐ではなく、激しい恋の逃避行だったと誰が知ろう。  若き吸血貴族と人間の娘——二人をつなぐのは恐れと侮蔑ではなく、空しいまでに強い相思の絆だったのだ。  そうでなければ、村人すべてを吸血鬼に変えた挙げ句に連れ出されたこの娘が、今なお汚れを知らぬ肌でいられるはずがない。  貴族にとって、人間を自分たちの仲間に引き入れることは、美しいものの生命を吸い取るという美意識に彩られた食事であると同時に、嫌がるものを犯す快楽と、下賎のものを自らと同じ存在に引き上げてやる歪んだ優越感に満ちた行為なのであった。  マイエルリンクはそれをしなかった。  彼はただ、少女を家から連れ出し、手を取って馬車へ乗せたにすぎなかった。  意志の自由を奪う妖術も、家族への脅威をほのめかす強制もなかった。少女自身がそっと家を脱け出したのである。  時折、このようなことが起きる。  人界と魔界に。  だが、それは決してふたつの世界をつなぐ架け橋とはならず、石もて追われるのが常であった。  彼らもまた。  貴族は滅びの光に揺れ、少女は戻る世界を失い、二人はどこへ行こうというのだろう。  星々の間とは?  マイエルリンクが顔を上げた。 「どうなさいまして?」 「いや。今日は夜明けが早そうだ。もう少し距離を稼ぐよう、馬たちをあおらねばいかん」  少女の頬に口づけをし、彼は影のように御者台へ戻った。  鞭を手に、まず眼を向けたのは前方ならぬ背後の闇であった。  外界の事物をすべて遮断した空間で、彼は遠く迫る鉄蹄の響きを聞きつけたのである。 「これほど早く——やはり、Dか」  馬の尻が鳴った。  左右の光景がちぎれ飛んでゆく。  しかし、貴族の耳は、背後の足音が徐々に、確実に接近してくるのを聞き取っていた。 「もう少しで川だ」  マイエルリンクはつぶやいた。 「私と奴を隔てる道よ。あと十分だけ|保《も》ってくれ」 「ほう。いよいよ近づいてきたぜ」  ノルトが見上げる雲の中で、Dの前方に小さく、光点が瞬き始めた。馬車の窓から洩れる光であろう。 「あと五分。どっちがやられても、こっちには好都合だ。で、兄貴はどんな引導を渡すつもりかな?」  ボルゴフに訊かず、つぶやきにとどめたのは、彼が完全な没我の境地に突入していたからだ。  地上の万物すべてを見つめる月の視線から、任意の一点景を選び、雲海をスクリーンとしてそれに投影するという破天荒な妖術のためか、ボルゴフの巨体は肉という肉が削げ落ち、半ばミイラと化していた。  再び雲塊のスクリーンに眼をやったノルトが、ほお、とつぶやいた。  いつの間にか、突っ走るDの左右の光景は、荒涼たる岩山と変わっていた。 「——ということは、兄貴、岩崩れでも起こして、奴らを生き埋めにする気かな?」  ついに、マイエルリンクは、闇を見透かすその視線に黒い騎馬を捉えた。  コートの裾が不吉な羽根のように広がり、風を切っている。  互角に闘って倒せる相手かどうか。それなりの自信を持ちながら、マイエルリンクの胸には不安が黒々と鎌首をもたげてくる。  ほんの一瞬の手合わせであったが、頭上から襲った剛剣の衝撃と鋭さは今も左手にありありと残っている。ようやく痺れが取れてきたところだ。いや、それどころか、レーザー・ビームすらはじき返す鋼の手甲が、その半ばまで切り込まれていると知ったときの恐怖は、今もありありと、背中に残っている。  吸血鬼ハンターD——断じて軽視すべからず。  マイエルリンクの眼が|煌々《こうこう》と真紅にかがやき、鞭を掴む右手から、めりめりと音をたてて黒い鉤爪が伸びてくる。  新たな死闘の展開を知ったか、風すらもごおごおと怒号した。  前方に木の橋が見えた。  水流の音が聞こえる。かなり激しく。  マイエルリンクの眼が吊り上がった。素早く身を屈め、御者席の脇の箱から、二本の黒い円筒を取り出した。  時限装置付きの分子振動弾である。  強烈な超高速振動を加えられた構成分子は、結合エネルギーを破壊され、物質はすべて微細な塵と化す。  凄まじい音を立てて、馬車は橋を渡り始めた。長さは約二十メートル。十メートルほど下を、白い帯が走っている。激流だ。  渡り切った位置で馬車を停め、振り返る。  分子振動弾のスイッチを歯でくわえて回した。貴族にふさわしくない武器だ。  五秒ほど遅れてDの姿が橋上にかかった。  一瞬の躊躇もなく突進してくる。  愚かとは思わなかった。このハンターは、あらゆる状況に対処する自信と能力を有しているのだろう。  こちらも死力を尽くして向かう他はない。 「思いきり一対一でやり合いたかったが」  と彼は鉄蹄の轟きをききながらつぶやいた。 「これでどうだ、D——?」  ぐいと投擲姿勢に入ったその瞬間——  眼の前で稲妻が閃いた。  いつの間にか空中に凝集していた黒い雲海から、橋上——Dの眼前の通路へと。  音もなく眼前に火花が飛び、ぽっかり開いた直径三メートルもの大穴をどうやって回避できたろう。  馬の足は空しく宙をかき、Dの身体は優美な騎乗姿勢を保ったまま、地響きすら立てて流れる激流へ真っ逆さまに落下していった。    3 「やったぜい!」  ノルトの叫びと同時に、ひとまわり細くなったボルゴフの身体はがくりと前へのめっている。  騒ぎを聞きつけて、 「どうしたい?」  のっそりとカイルも顔を出した。すぐ窓の外を見上げるが、ボルゴフの失神とともに、雲はスクリーンの役目を失っている。 「へえ、兄貴、またやったのか? 寿命が三年ずつ縮むと自分で言ってるのによ」  嘲るような言葉にかぶせて、死人みたいな声が言った。 「……奴は川に落ちた。ダンピールは泳げねえ……ノルト、探して止めを刺せ」  数分後、砂塵を巻いて走り去る次男を見送り、カイルに運転を命じると、ボルゴフは奥の寝室へやってきた。  疲労し切った身を休ませるためである。  弟と妹用の二段ベッドが左右にひとつずつ。彼のだけは特製の大型がいちばん奥にある。  足音を忍ばせて通路を行く途中で、肉こそ落ちたが骨太な腕を、ぞっとするほど冷たいものが押さえた。  ボルゴフは振り向いた。  白い、これこそ本物のミイラと見まごうような手が、右側の下段ベッドから突き出ている。 「なんでえ、起きてたのか? すまねえな、ノルトの馬鹿声、うるさかっただろ?」  この男のどこから、こんなやさしい声が出てくるのか。ベッドの主はさも辛そうに寝返りを打った。  哀しくなるくらい小さな毛布の盛り上がりであった。 「ごめんよ、兄さん……役に立てなくて……」  か細い声に、ボルゴフは無言で首を振った。ぎりぎりと音をたてて軋りそうな猪首である。 「つまらねえこと言うんじゃねえ。どんな相手だろうとおれたち四人で十分さ。おめえは、黙って休んでりゃいいんだ」  軽く撫でると、細い手はようやく毛布の内側へ引っ込んだ。 「発作はもう当分、起きそうにねえか? ん?」  あくまでも思いやり深い問いに、頭のてっぺんまで引き上げられていた毛布がすっとずれた。 「大丈夫だよ。なんとか、自分でコントロールできそうだ」  弱々しく答える顔は笑っている。笑っているとわかるだけで、浮かんでいるのはどう見ても死相だ。削げ落ちた頬、窪んだ洞窟みたいな眼窩の奥で濁り切った眼球、土気色の唇から声と一緒に洩れる呼吸音も瀕死の病人のごとく細い。  Dと初めて会ったとき、ノルトが紹介した病弱の弟とは彼のことだろう。  だが——  その死人のごとき相貌を一瞥したら、Dですら驚きを隠せないのではあるまいか。  どこか、童子のようなあどけなさを湛えた顔は、あの日、襲いくる吸血鬼の群れを一撃の下に屠り去った、生気にあふれた青年の面影をはっきりと刻み込んでいたのである。  恐るべき追っ手が眼下の濁流に吸い込まれ、あっという間に見えなくなるのを、マイエルリンクは半ば茫然と見つめていた。  非透過性のカーテンが開き、少女が窓から顔を覗かせたのにも気がつかない。 「どうかして?」  不安げな声にようやく振り向いて、 「何でもない。厄介事がひとつ減った」  馬車の後方で、なお炎と黒煙とを噴き上げる橋を見て、少女の顔がさっと曇った。 「一体何が——あなたがあの穴を?」  マイエルリンクは答えずにいた。  新たな敵の存在をひしひしと感じていたのである。  橋に穴を穿ったのは、稲妻とはちがう一種の崩壊エネルギー・ビームだ。今でも、地上三万六千キロの静止軌道には、ビーム兵器を満載した二千以上の“衛星”群が長い眠りについている。この多くは、人間弾圧の目的で政庁が打ち上げた代物だが、個人的な所有衛星も数多い。  そのどれもが装備しているのは、あくまでも人工的なビーム発生装置だ。あの[#「あの」に傍点]自然発生的エネルギーとは異なる。その照準の正確さ、Dのみを狙ったと思しい意図から見て、放ったのは人間、それもDと敵対する存在にちがいない。彼を救おうと意図する者たちが滅び去って久しいからだ。  恐らくは別のハンター。  Dとは別の意味で恐るべき敵だ。  ひとりだろうか。  限りなく冷たく|昏《くら》い瞳を、銀蛇のごとき流れに据え、マイエルリンクはじき少女の方へ向き直った。 「大丈夫——あと二回、夜をすごせば、星への門だ。ゆっくりお寝み。すべては私にまかせ、安心して」  少女がうなずいて引っ込むと、マイエルリンクは宙天にかかる月を見上げ、こうつぶやいた。 「あと二日——だが、またもや昼が来る。その間に、新しい敵と相まみえるかどうか」  岩を砕くような勢いで流れていた水流も、ここまでくると猛々しさを失い、岸にあたっても牙を剥くことはない。川幅も広さを増し、月の光を求めて跳ねる水魚たちの銀鱗があちこちで煌めくのが見える。時折、川底まで覗く透き通った水の表を、巨大な蛇のような影がうねうねと上流へ泳いでいくのが不気味だった。  川原のやや上を走る小道の上で、 「そろそろ、この辺だが」  とつぶやいて歩みを停めた人馬がある。  背の六角棒を見るまでもなく、マーカス兄妹の次男・ノルトである。  ボルゴフの命令に従い、濁流に呑み込まれたDの始末に馳せ参じ、ここまで下ってきたらしい。  橋から下流へ三キロの地点であった。  東の山々の背に、薄青く暁光の兆しはうかがえるが、世界を包む闇は濃く暗い。  しばらく周囲を見回し、ノルトは右手を六角棒に伸ばした。 「もっと下とも思えねえ。と、すると、奴、溺れずに逃げ延びたか。だが、ダンピールにどうしてそんな芸当が……」  ノルトの不興げな声は、ダンピールという一種、超存在的な生物の特性をついていた。  貴族——吸血鬼と人間の中間的存在である彼らは、当然のことに、両者の肉体的条件の長所短所をともに受け継ぐ。  貴族の資質のうち、人間には致命的とも思える肉体的損傷を受けても短くて数時間、長くても数日のうちに全快する回復能力等は、言うまでもなく長所だ。  一方、マイナス面も、陽光下での七〇パーセントにも及ぶ体力低下率、空腹時における生者の血液への限りない欲望など数多いが、中でも珍奇なのは、彼らが共通して、水に浮くことができないという事実である。  貴族たちの肉体的条件中、最も奇異な現象であるそれは、人間の一大反抗期の始め、彼らを撲滅し得る数少ない方法のひとつとして珍重されたが、やがて、溺死そのものが、杭や陽光に比べ、極めて効果の薄いことが明らかになってから、対抗策としての重要性は大幅に薄れた観がある。溺死による心機能と新陳代謝の停止は、夜の到来と新鮮な血液補充によって、いともたやすく覆されてしまうのであった。  その代わり、その両者が与えられぬ限り、溺死からの復活はない。いわば仮死状態の貴族をそのまま焼き捨てるか、永遠に土中へ封じ込めることが可能なら、水の流れも十分、人々の役に立つといえた。  ボルゴフの“止めを刺せ”とはこの意味であった。 「よく来たな」  低い声がノルトの全身を硬直させた。  それも一瞬。背後へ——声の方向へ、空気を裂いて六角棒が走った。  右手が茶の一線と化したかのようであった。  奇怪なことに、電光の速さで描かれた弧は楕円であった。  まさしく、声の放たれたその地点で、六角棒は倍近い長さに伸びたのである。  しかし——  手応えのなさに唖然として振り返ったノルトの手の中で、棒は変わらぬ長さを示している。 「変わった術を使うな、おぬし」  道のかたわらにそびえる巨大な角石の上で、身の毛もよだつ美貌が|鋼《はがね》の声で言った。  答えもせず、茶の閃光が迸る。それが触れた部分は跡形もなく消し飛び、石片を撒き散らす中を、Dは魔鳥のように宙を舞った。  冷たい眼は岩肌の棒痕を捉えただろうか。  金剛石にも等しい硬質の表面を粘土のようにえぐったそれは、ノルトの手の中で軽やかに向きを変え、空中のDへと走った。  Dの右手が閃く。  茶色の弧を銀色の閃光が迎え討った。  鈍い音がした。  二撃めを放つ余裕を与えず、ノルトの眼前へ着地しざま、Dは一刀を振り下ろした。  その剣風に血も凍る恐怖を味わいながら、ノルトは後方へ跳んでいる。  跳びながら放った一撃は「振り」ではなく、無限長の「突き」と化して、Dの顔面を襲った。  身をかわしたようにも見えず、しかし、数ミリの差で棒をやりすごしながら、Dは跳躍した。  横なぐりの一閃。  袈裟がけにノルトの顔を両断するはずの刃は、撥ね上がった棒と噛み合い、二つの影は音もなく左右に分かれた。  棒の先端をDの胸に向けたまま、ノルトは荒い息をついていた。恐れのもたらすものであった。  その額から細い朱の線が糸みたいに顔の真ん中を流れ、顎で広がっている。着地しざまに振り下ろしたDの刃の仕業であった。  だが、ノルトの恐怖はそれだけではなかった。  彼の六角棒は一本の木の棒ではなく、中心に、細いが大容量のレーザー・ビームも撥ね返す鋼芯が埋め込まれている。その棒の先端三十センチほどがない[#「ない」に傍点]。空中で斬り落とされたと知ったとき、ノルトの血液は熱を失ったのである。 「貴様……ただのダンピールじゃねえのか?……」  ようやくそれだけ言った。 「ダンピールだ」  青眼に構えたままDが答える。  ノルトの口元が笑みの形に吊り上がった。 「そうかい。なら、これでどうだ!?」  言葉と同時に棒が旋回した。  いつの間にか左手に移り、真横の地面を叩いた。  どん! と腹に響くような音がして、直径一メートルほどの地面が陥没した。  それはただの窪みではなかった。三十センチもの深さを保ちながら、一本の溝となって川へと走ったのである。  再び跳躍しようとして、Dの眼球がそちらを向いた。  穏やかな水の流れに狂気が生じた。  その溝を伝って岸へと流れ込む途中、水は猛烈な速度を獲得し、土手にぶつかるや、生き物のごとく噴き上がって、向かい合う二人の間へ殺到する。  Dとノルトの靴も足首もみるみる水没した。 「どうだ、ダンピール。動けるか?」  ノルトは笑いながら訊いた。勝利の笑みであった。 「前におまえの同類とやり合ったことがあってな。そのとき、これ[#「これ」に傍点]を使ったのよ。ダンピールてな、水を浴びるとその部分が硬直しちまうそうじゃねえか?」  Dは動かない。動けないのだろうか。 「くたばれ!」  叫んでノルトは突進した。棒は思いきり下を持ち、真っ向からDの頭を叩きつぶそうと、振りかぶられている。  足元で水が跳ね、動かぬハンターの前で彼は地を蹴った。  下方から黒い稲妻が走った。  振り下ろす棒よりも速く高く、それは彼の頭上に舞った。  ノルトが最後に見たものは、そいつの黒いブーツに、食肉獣のごとく地上から切れずにまつわりついている粘っこい水であった。  Dの一刀に頭頂から顎先までを両断され、下降に移ったとき、ノルトの息は絶えていた。  血の霧が舞った。  どっとくずおれるノルトへもはや一瞥も与えず、Dは初めて現れた岩陰へ歩いた。  馬が待っている。  コートを翻して跨り、川の上流へやった眼は限りなく冷たく、そして、悲哀の色さえあった。 「逃げるがいい。だが、追いつくぞ」  つぶやきが宙にとどまっているうちに、馬は岸辺へ降りた。  ためらいもせず水面へ足を踏み入れる。浅くはない。川の深さはDの腰まであった。  見るものがいたら、馬が水上を跳ねていると思ったであろう。  大きく跳躍した馬は、足首までを水中に没したきりで軽々と飛翔し、小さな白い飛沫を撥ね上げつつ、広い流れを渡っていったのだ。  水面から数センチ足らずの位置に沈む石はさほど多くはない。  秒瞬の間にそれを発見し、その上を行くよう馬を操ることが、Dには可能だったにちがいない。 [#改ページ] 第三章 妖人の里    1  対決はもうひとつの場所でも繰り広げられようとしていた。  あの橋から五十キロほど離れた赤茶けた谷間の一角へ、マーカス兄妹のバスが接近しつつあったのである。  カイルを先に出動させなかったのは、黒馬車の速度と、夜明けまでの時間を計算し、バスだけでも十分追いつけるとボルゴフが判断したためだ。レイラとグローベックの面倒を彼がみなければならず、カイルをひとりでやるのにためらいを覚えたせいもある。  Dを始末にいかせたノルトのことも気がかりだが、彼の棒術の秘技を考えれば、確実に溺れたはずのハンターを抹殺するのは、赤子の手をひねる以上に簡単なはずだ。こちらの仕事が片づいてから照明弾でも上げて呼びつければいい。 「あれ。——照明弾だぜ」  ハンドルを握っていたカイルが眼を細めた。 「なに?」  ききつけてボルゴフがごつい顔を覗かせた。すでに白々と光の満ちる暁の空へひと筋の光点が上昇し、すぐ数倍に膨れ上がった。 「こんな荒野の真ん中で照明弾か。貴族しかいねえな」 「あたぼう[#「あたぼう」に傍点]よ。距離は約五キロ。五分で追いつくぜ。野郎は身動きできねえ。へへ、ひと刺しよ」  舌舐めずりしながら、壁に備えつけた杭の先を撫でるカイルへ、 「しかし、どうも気になる」  とボルゴフは腕組みしながら言った。 「こんな場所で照明弾を打ち上げてどうなる? 助けを求めたって誰も来やしねえ……」  少し考えてから、不意に髯面が上がった。 「——まさか! 急ぐんだカイル。ひょっとすると、奴、厄介なものを呼んだかもしれねえ」  ただならぬ口調に、カイルの顔も緊張した。 「よっしゃあ!」  急激なギヤ・チェンジとアクセルのプッシュに、窓外の光景は、猛烈な勢いで左右へ流れ始めた。  |磊々《らいらい》たる岩山の風景がますます荒涼奇抜の観を呈してゆく。  火山活動でも営まれているのか、あちこちの地面から噴き出す白煙がもうもうと地表を這い、その噴出孔の周囲には黄色い硫黄の群塊がべっとりとへばりついている。岩さえも尋常な形を失い、あるものは槍のように宙天に挑み、あるものは指一本で崩れ落ちそうなほど不安定極まりない。  車体が通過しただけで陥没する地面はあちこちに亀裂を生じさせ、その下から血色とも何ともつかぬ水泡のようなものが舞い上がってはじけると、こんな世界でもゆうゆうと飛翔していた小さな昆虫が、全身を痙攣させ、落下するのであった。  車は何度か白骨を、それも牙を剥く大型獣から微細な虫ケラらしきものまでが|堆《うずたか》く積もった骨の山を踏みにじった。硫黄ばかりではなく、もっと強烈な毒素が、空気全体に混じっているのであった。  道はやがて一層細まり、左右の岩肌は高さを増して、今にも頭上から雪崩れ落ちるかのような迫力を備えてきた。  さしものカイルもボルゴフも、緊張の色を隠せない。  谷間の道へ入って二〇分ほども進んだだろうか。  不意に、カイルがスピードを落とした。 「いたぜ!」  前方に渦巻く白煙の奥に馬車のフォルムが滲んでいた。 「どうする、兄貴? このまま突っかけるか?」  バスの前には鋼鉄製の装甲板がボルトで留めてある。 「いや。万がいち、娘が生きていたら事だ。どのみち貴族は昼間動けやしねえ。降りて片づけるさ。ガスマスクをつけろ」  二人が身仕度を整えたとき、寝室のドアが開いて、レイラが顔を出した。  顔色はさすがにまだ青いが、眼には闘志が燃えている。 「おかしなところで停まったわね。見つけたの?」 「おまえは休んでろ。グローヴを頼むぞ」  ガスマスクを装着しながらボルゴフが言った。 「嫌よ。連れてって」  レイラは長兄の腕を捉えた。石のような筋肉の手応えであった。 「敵は貴族よ。昼間動けないからって、無防備のはずがない。詰めの人数はひとりでも多い方がいいわ」 「怪我人は足手まといだ」 「だって——」 「よさねえか、レイラ」  と短槍を握ったカイルが遮った。右の腰にはもうひとつ、ガスマスクをつけている。さらわれた娘用だ。 「兄貴もああ言ってる。ここはおれたち二人にまかせときなって。なあに、陽はまだ高いんだ。心配はいらねえ」  なだめすかすような、どこか獣欲めいたものを感じさせる声に、レイラはそっぽを向いた。あきらめたらしく、うなずいた。 「出るなよ」  ひとこと言って、ボルゴフとカイルは出入口のステップに立った。カイルが脇のスイッチを押すと、頭上から半透明のフードが降下し、二人を車内から隔離した。  毒煙渦巻く環境で獲物を追うのは初めてではない。  手動でドアを開け、二人は地面へ降りた。ガスマスクの他は何も着けていない。この程度の毒煙や放射能なら、血液中の人工抗体が食いつぶしてしまう。  地を疾る足は、わずかな音もたてなかった。  馬車は孤独な影をうっすらと地面に灼きつけたきり動かない。六頭の黒馬も首を垂れたまま、眠っているとも、もの想いにふけっているとも見える。  その無防備な光景が、かえって二人の胸に漠然たる不安と緊張を植えつけた。  カイルが短槍を握り直す。  馬車まで三メートル。  白煙が二人の視界を覆った。  それが晴れた。  音もなく、二人は左右に跳んだ。  馬車と彼らの中間に、ひとつの黒い影が忽然と立っていた。  黒いフード付きの長衣に覆われた細長い姿は、毒煙の成分が作り出した幻想かとも思われた。 「誰だ、おめえ?」  カイルが低く訊いた。マスクのフィルターは音声増幅器も兼ねている。  答えず、影の右手が上がった。  ひょうと唸りを発し、その手首あたりを鋼鉄の矢が貫いた。  影が揺れた。  矢は一本ではなかった。ボルゴフの神技に、影の頭部と左胸もまた、貫かれていたのである。  いかに正体不明の相手とはいえ、無茶苦茶なやり方だが、これがマーカス流なのだ。  影が顔を上げた。  二人の眼が大きく見開かれた。  フードの中身は空っぽであった。  三本の矢を留めたまま、ただの長衣がばらりと大地へわだかまっても、さすがのボルゴフが二撃めを射つのを忘れている。  次の瞬間、何を思いついたか、彼は馬車に向けて鉄の矢を放った。  それが後部の磨き上げた鉄板を見事に貫いたと見る間に、窓は輪郭を失い、車輪はへなへなとひん曲がって、馬車全体が一枚の黒い布と化し、人影の後を追ったのである。  白煙を灼いて銀光が走った。  それは優美な弧を描いて馬たちの首をめぐった。円月刀の一閃である。太い首は半分ほどもちぎれて垂れ下がった。  血は出なかった。  鮮やかな切り口には肉や頚骨の断面も見えない。  内側は空洞であった。  ふわりと六頭の馬のことごとくが黒い布と化して地にわだかまるのを、二人は茫然と見つめていた。  奇怪な笑い声が周囲に湧き上がったのはそのときだ。  高く低く、地底から洩れるような不気味で美しい声は、女のものであった。  ひょいと二人の前方十メートルほどのところに、女らしい細身の影が滲み出す。 「ほほほほほ。貴族の後をここまで尾けてきたおまえたち。どれほどの腕の持ち主かと見物にきたが、所詮はそれだけのものか。ならば、この道を辿っても待つのは煮えたぎる地獄の釜じゃ。おとなしく尻尾をまいて消えるがいい」  金鈴を鳴らすような声に、とてつもなく邪悪な翳を感じつつ、 「いま、おかしな術を使ったのはてめえか!」  とカイルが叫んだ。短槍は左手に、右の手は必殺の円月刀を構えている。 「残念じゃがちがう」  と女は言った。 「だが、わたしでなくて幸い。ただの悪戯で済まされたからの。つまらぬ生命でも惜しいと思えば今すぐ後ろを向くことじゃ」 「貴族はどこにいる?」  ボルゴフが訊いた。おかしなことに、彼はぴたりと両眼を閉じていた。 「わたしたちの里よ」  と女は答えた。 「おまえたちのような蛆虫に追われぬ用心に優秀なガードを雇いにきた。ふふ、おまえたちも、彼を追うハンターを、わたしたちの中から選んだらどうじゃ?」  ガスマスクの下で、カイルの顔が怒気で黒く染まるや、右手が動いた。  風を切って飛ぶ短槍が空しく女の影を貫き、彼方の石壁にめり込んだとき、二人の周りに朦朧と浮かび上がったものがある。  すべて女の影であった。 「野郎!」  と吐き捨てざま、そのひとつを薙いだ円月刀の一閃は何の手ごたえもなく通りすぎ、カイルは長兄を振り仰いだ。 「というわけだぜ、兄貴」  眼を閉じたままうなずく巨漢の耳へ、また美しき嘲笑が忍び入った。 「ほほほ。まだわからぬか、愚かもの。永劫にこの毒煙中をさまようがよい」  その声が突如、ぎゃっという悲鳴に変わったのは次の瞬間であった。  二人の後方で揺れる影のひとつを、ボルゴフの矢が貫いたのだ。だが、いつ、どうやって?  兄の手が動くのをカイルは見なかった。いや、弓と矢はそもそも、前方に向けられていたのだ。刺し貫かれた霧の女でさえ、その謎はわからなかったにちがいない。  毒煙の臭気に血の香りが混じった。 「お、おのれえ!」  叫びと同時に影はすっと消えた。 「兄貴——やったぜ!」 「ああ」  女が完全に消えたと知ったか、虎のような眼を異様に底光らせて、ボルゴフはうなずき、たちまちバスへと踵を返した。  ドアを閉め、排出孔から毒煙を除去すると、車内に入り、初めて、ボルゴフは岩みたいな拳で車体を叩いた。  ぴいんと天井が揺れる。 「どうしたい、兄貴?」 「厄介なことになりやがった。貴族の野郎、バルバロイの里へ逃げ込んだぞ」  緊張したのはカイルだけではなく、待機していたレイラも同じだった。  この兄妹の間に、初めて青白い脅えに似たものが流れた。——が、それも束の間、 「面白いわね」  レイラが青白い顔に興奮の朱さえ上らせてつぶやいた。 「バルバロイの里——五千年の間、魔人たちの血と血を混ぜ合わせ、闇の中に育んだ妖術——いちど手合わせ願いたいと思っていたのよ」 「そうともよ」  カイルが牙を剥いた。 「奴があの里へ逃げ込んだんなら、十中八九、——いや、あの女も言ってたな。あたしたちを雇いにきたと。こりゃ、絶対に魔人どもを護衛につけたにちがいねえ。くく、腕がなるぜ。噂に聞くバルバロイの妖術。おれたちの技とどちらが勝つか。ひとつお相手願おうじゃねえか」 「もちろんさ。いざとなったら、バルバロイだろうが、貴族の神祖だろうが、おれたちの手を奴らの血で染めてやる。だがな。当面の目標は、あの貴族野郎と一千万ダラスよ。金にもならん戦いはしたくねえ。とりあえず、ノルトの帰りを待って、化け物どもの巣を見張ることだ。おれとカイルで行く。レイラ、おめえはこの地獄を脱け出たところで照明弾を上げてノルトを待て」  そして、この凶悪な兄妹は、顔を見合わせ、血震いするような凄絶な笑みを洩らしたのである。  果たして、彼らすら侮り難いというバルバロイの里とは? その住人とは? 闇が育んだその術とは?    2  マーカス兄妹が奇怪な影と女に遭遇した地点から五キロほど道に沿って進み、左手に目をやると、ひときわ高い岩山が見える。  何の知識もない旅人の眼には、不毛の黒い大地に大小無数の岩が積み重なった単なる自然の創造物だが、ひとたび眼を凝らし、そうと意識してみれば、重なった|石塊《いしくれ》が一見無造作に、その実、まことに整然たる力学的配置をもって並んでいることが知れ、同時に、雲海と青空に溶け込んで見える高みから吹き下ろす冷風の、妖気にも似た肌寒さに戦慄を禁じ得まい。  たやすく登頂を許しそうな岩山の岩は、どのようなタフな人間が挑んでも途中で音をあげるような複雑微妙な配置に築かれているのであり、万にひとつこれを突破しても、必ず通過せねばならぬ地帯にあるどの岩にでも触れようものなら、何万トンもの岩崩れが登山者を呑み込む仕掛けだ。  それでも何かの奇蹟に恵まれ、岩山の中腹へ差しかかると、眼の前にひとつの洞窟がある。冥界から吹くようなじめじめした風にあたりながらそこを抜けるとすぐ、巨岩と巨木とで構成した要塞のような砦があった。  世間並みな笑い声や怒号、泣き声が引きもきらず、煮炊きする煙も絶え間がないにもかかわらず、どことなく人間の世界から隔絶されたような雰囲気と妖気とを漂わす。——こここそが、マーカス兄妹を戦慄せしめた魔人の巣、バルバロイの里であった。  その里へ、一体どのような手段で入り込んだものか、六頭の黒馬に引かれた馬車が訪れたのは、明け方の光がようやく日中らしい生命力を湛え始める時分であった。  里には家があり、大勢の男女がいた。  彼らは働いていた手を止め、家々の戸口から顔を覗かせ、たちどころに馬車を中心に円陣をつくった。  奇妙な訪問者の素姓は先刻承知なのか、誰ひとり馬車の戸を開こうというものはいない。  幾重にも重なった円陣を押し分けるようにして、白髪の老人が姿を見せた。  |白髯《はくぜん》が地を掃くほどに長く垂れ、腰も大地と水平に曲がっている。何百歳ともわからぬ顔の皮膚はおびただしい皺に埋め尽くされ、それでいて、言いようのない精気を全身にみなぎらす老人であった。  彼は馬車の左側の扉に寄り、手にした杖で鋼の表面を軽く叩いた。  それからひとりでうなずき、背後を振り返って一同にウインクすると、しなびた粘土みたいな片耳をそこにあてがった。  風がぴたりと絶えた。  死のような沈黙が数刻つづき、やがて老人は、孫をあやす|翁《おきな》のようにやさしい表情でうなずき始めたのである。 「そうか、そうか、ようきた。愛しい|女《ひと》を守るため、護衛が欲しいとな。よいとも、よいとも。で、何名か? ——三名? ふむ、誰か希望でもあるのか?」  細い線みたいに閉じられていた瞼がこのときかっと開いた。  凄まじい光が溢れ、しかし、眼は再び閉じられていた。 「ベンゲ、カロリーヌ、マシラ……ほう、わが里でも腕利き中の腕利きじゃな。よかろう。おぬしの照明弾で追われていることを知り、ベンゲとカロリーヌは野良犬どもをからかいに行っておるが、じき戻る。好きなように使うがよい」  昼は仮死状態となっているはずの貴族と、この老人はどうやって会話しているのだろうか。居並ぶ誰ひとり、それに不審そうな素振りを見せぬまま、老人の眼がまた開いた。 「ほう、もうひとつ頼みとな……なに、ただひとり、おぬしを追ってくる奴がおるのか。ふむ……ダンピール」  ぞわっと空気が動いた。村人たちは身じろぎもせず、白い鬼気が立ち込めたようであった。  それが驚愕の呻きに変わった。 「名前は——D!?」  と老人が洩らしたときに。  少しして、再び沈黙が情景を領したとき、老人のつぶやきは、歓喜のあまり震えすら帯びていた。 「辺境一の|吸血鬼《バンパイア》ハンター——相手にとって不足はないわ。この砦の中へ誘い込み、ゆるゆると討ち取ってやろうほどに。だが、料金は大分張るぞ」  兄たちが去って一時間もすると、グローベックの容態がおかしくなった。  呼吸が浅く速くなり、痩せこけた顔に汗が噴き出す。  いつもより切迫した状況に、レイラはあわてた。脈搏も速い。 「発作ね。だけど、今度は今までとちがうみたい。……一体、どんな……」  とにかく、点滴の瓶へぎりぎりまでイププロフェンを加え、層を成す汗を拭った布をキッチンへ冷やしに向かったとき——  バスが激しく揺れた。  金属製の食器が次々に床へ落ち、吸音材の絨毯が静寂を維持しようとしても、車内は猛烈な騒音に満ちた。全身の傷が激しく痛む。  点滴の瓶を大急ぎでガム・テープで止め、レイラは車内を駆けまわって窓という窓から四方を見渡した。誰もいない。道を少しはずれた直径百メートルほどの広場の真ん中である。舌打ちをして、レイラは後部の車庫へ飛び込んだ。  四肢を折り曲げた五頭のサイボーグ馬を尻目に、|戦闘《バトル》カーの操縦席へ跳び乗る。  イグニション・キーを回すと、快い震動がレイラを捉えた。棒ハンドル横のデジタル・メーターを見るまでもなく、レイラには車の状況が手に取るように把握できた。 「核燃料充填、九八パーセント……エンジン異常なし……スタビライザー異常なし……貫通痕による損害、軽微。走行ボルテージ九七パーセントまで影響なし。……武器コントローラー、OK。——行くわよ」  後部のドアが開くや、通路が滑り出すのも待たず、|戦闘《バトル》カーは躍った。  着地と同時にフル・スロットルでバスの周囲を巡る。  震動するのはバスばかりで、やはり無人であった。  レイラは広場の入口を塞ぐように|戦闘《バトル》カーを横づけし、|席《シート》から仁王立ちになった。 「誰? 出てらっしゃい。マーカス兄妹の長女、レイラ・マーカス。逃げも隠れもしないわよ」  身体のあちこちから突き上げてくる痛みを顔に出すまいとこらえながら言い放つと、バスの震動はぴたりとやんだ。  呼応するように、陽気な声がした。 「威勢のいいお嬢さんだな」  愕然と振り向いたレイラが、首を回す寸前、とまどいの表情を浮かべたのは、はっきりと聞き分けられるこの声が、どこから響いてきたのかわからなかったためだ。  背後には誰もいなかった。  左右にも。 「何処よ——何処にいるの? 卑怯もの、出てらっしゃい!」 「出るもなにも——」  と声は嘲った。 「おれは君のそばにいる。見えんのは眼のせいだ」  もう一度、血も凍る想いで周囲を見回し、レイラは声の内容が真実と悟った。  そいつはどこかにいる。  それも眼と鼻の先に。  レイラは全神経を動員して四方を探った。  五感は兄たちと遜色ない機能を発揮するよう鍛え上げられている。その耳も皮膚感覚も、この広場に生きるものは彼女自身しかないと告げている。  それなのに声がする。  生まれて初めての恐怖がレイラを押し包んだ。  完治せぬ傷と自信喪失がもたらすものであった。  かたわらの短針銃を片手にレイラは車外へ跳んだ。  血走った眼を四方に走らせる。まだ闘争心を捨ててはいない。  刺すような痛みが背中に走った。  振り向きざま放った短針銃の猛打を浴びて、広場を囲む岩塊のひとつが砂塵と化す。高圧酸素によって射ち出される長さ一ミクロン、太さ千分の一ミクロンの超硬度鋼の針五十万本は、貴族の城壁も脆い素焼きの壷と変えてしまうのだ。  しかし、姿なき相手には——。  レイラは片手を背に回した。粘い感触は血だ。明らかに刃物で斬られ、こちらは手も足も出ない。  つづけざまに二度、激痛に襲われ、レイラは膝をついた。気力が急速に失せていく。  声がまた湧いた。 「どうしたね、お嬢さん? これでもおれの仲間が受けた傷よりは軽い軽い。気の狂うまでには大分あるだろ?」 「誰よ、あなたは? どこにいるの!?」 「さっきから言ってるじゃないか。君のすぐそばだって。眼をこらせば見えるはずだよ。見えないと思うから見えん[#「見えないと思うから見えん」に傍点]。ほら、これでわかるかね?」 「あうっ——!」  切り裂かれたシャツの背から鮮血を溢れさせながら、レイラは地に伏した。  手も足も出ぬ娘の肌を、薄く浅く切り裂いてゆくとは、何という残酷な拷問か。悶えるレイラの姿に淫猥なものを刺激されたのか、声には欲情の響きさえこもった。 「どうした、どうした。もっと苦しめ、もっと悶えろ。おまえの兄貴たちもそのうち同じ目に遭わせてやる。ははははは」  嘲笑がぴたりとやんだ。  すぐそばで、激しく動揺する気配をレイラは感じた。  びょうびょうと不可思議な鬼気が吹きつけてくる。  広場の入口から。  ノルトだろうか——いや。  もうひとつの絶望に胸を塞がれつつ、レイラは必死で顔をねじ向けた。  どうやって|戦闘《バトル》カーを越えたのか、音ひとつ立てず黒衣の青年は飄然と広場の中に立っていた。  自分を見つめる美貌に痛みさえ忘れ、レイラは陶然と酔った。  不気味な気配はすっと消えた。  しばらく、様子を探るように馬上で待ち、Dは静かにレイラのかたわらに馬を進めた。 「相手はもういない。立てるか?」  レイラは夢中で身体を起こした。 「ご覧の通りへっちゃらよ。あなた、何しにきたの?」  強がりに敵意がこもらないのは、誰かが自分を介抱してくれたと、ボルゴフから聞いているせいだった。この美青年しかいない。 「照明弾を見てきた。残りの兄妹はどこにいる?」 「車ん中よ。変な真似したら、すぐ飛んでくるから」  レイラは嘘をついた。 「妹に戦わせておいて高みの見物か。マーカス兄妹も墜ちたものだ」  皮肉でも何でもない、単に事実だけを告げるDの口調に、レイラはかっとなり、それからよろめいた。出血多量の影響が出たのである。他の傷も完治してはいない。  馬上で凝視する青年の冷たい美貌へもう一度目をやり、レイラは失神した。  気がつくと、うつ伏せにベッドに横たえられていた。  素肌に包帯が巻かれていると気がつくより早く、レイラは身をひねってドアの方を見た。  黒い影が出ていくところだった。音もなく。 「待って。お願い、待って!」  夢中で声を振り絞ったのは何故か、自分でもわからない。  影は立ち止まった。  レイラは起き上がった。右手のチューブをもぎ取る。セットされた保存血液の瓶が激しく動いた。誰が輸血の用意を整えてくれたのか一目瞭然だった。 「寝ていろ。傷が開くし、弟が起きる」 「ほっといて」  それでも、通路をはさんだグローベックの様子を覗き、容態が安定しているのを確かめて、レイラは胸を撫で下ろした。  途端に身体中を貫く痛みが甦り、呻き声が出る。 「行かないで。——行ったら、あたし、死んでしまうから」  青年は戸口へ向かった。 「待って。あたしがどうなってもいいの?」  何故、こんなさもしい言い方をするのか自分でもわからなかった。そう言えば、そばにいてくれるのではないか。——こんな考えも浮かんではこない。  追いかけようとして、足がもつれ、床に倒れた。嘘ではない悲鳴が洩れる。  青年が悠然と近寄り、抱き起こしてくれた。 「痛いわ、背中が。ベッドまで連れていって」  これは嘘だ。  青年はまた背を向けた。 「待ってよ。さっきの奴は何もの? あなたが行っちゃったら、また出てくるかもしれない。お願い、ここにいて!」  青年は振り向いた。 「おれは商売敵だぞ」 「生命の恩人よ、あたしとグローヴの。兄貴たちが帰ってきても指一本触れさせやしない」 「その前に言っておく」  青年は淡々とつづけた。 「次男のノルトはおれが斬った」  レイラの眼が吊り上がった。  激しい怒りに全身が包まれ、Dめがけて跳びかかるかと思いきや、レイラは逆に肩を落とした。 「そう……兄さん、やられてしまったの……わかるような気がする。相手が貴方じゃね。——待って、行かないで。あと少しでいいから、そばにいて!」  悲痛な叫び以外の何が、氷のような青年の足を停めたのだろうか。  青年は寝室へ戻った。レイラはベッドに横たわり、青年は壁に背を当てて彼女を見下ろした。 「どうしてあたしを助けたの、二度も?」 「暇があった」 「貴族を追っているのではなくて?」 「行く先の見当はついている」 「あら、教えてくれない? 兄たちが喜ぶわ」 「そこのベッドにいるのが病弱の兄さんか?」  青年が静かに尋ねた。グローベックの方は見ようともしない。 「ええ。生まれたときから歩くこともできないの」 「代わりに別のことができそうだ」  レイラの顔に驚きの表情が走ったが、すぐに真顔に戻って、 「変わってるのね、貴方——商売敵を二度も助けるなんて。その兄は平気で殺したくせに。女なんて斬るのは、刀の錆?」 「向かってくれば斬る」  平然と言うDの言葉に、レイラは青ざめた。本気だと悟ったのである。美貌にも妖刃の鋭さを秘めた青年であった。  それでいて、じっと眼を合わせているうちに、この|男《ひと》になら斬られてもいい。殺してさえ欲しいという想いが妖しい霧のように胸中へ湧き上がり、心臓と頭の中をどろどろに溶かしてしまうのだ。  これがダンピール——貴族の血を引くものの力なのだろうか。 「変わった|男《ひと》ね」  とレイラはまた言った。 「兄さんたちが何処へ行ったかも訊かないの? あたしが眼を覚まさなかったら、行ってしまうつもりだったんでしょ。影みたいに。風みたいに。——ダンピールって、みな、そうなの?」 「いつからハンターをやっている?」  不意に切り出されて、レイラはどぎまぎした。 「いつからって、物ごころついたときからよ。他に生活できないもの」 「女向きの仕事ではない。獲物を追いつめるのが楽しくなってくると、もう女ではない証拠だ」 「ご挨拶ね。大きなお世話よ」  レイラはそっぽを向いた。他の男なら、平手かナイフが飛んでいるところだ。  諭すでも揶揄するでもなく、淡々とした口調で語る青年の言葉には、レイラを動揺させるものが含まれていた。 「いまさら生き方は変えられないわ。手に血がつきすぎてしまったもの」 「洗えば落とせる」 「どうして、そんなこと言うの? あたしを失業させたいわけ?」  青年は戸口へ移動していた。 「次におれを見かけたら、問答無用で射ちかけることだ。おれも容赦せん」 「望むところよ」  レイラの眼に哀しみの色があった。 「妹がひとり消えても、兄たちは騒ぐまい」  陽光のさなかへ消えゆく影が言った。 「死にかけて母親の名を呼ぶ娘に、ハンター稼業は向かん」  そして青年は消えた。  陽に溶ける影のように。  言葉だけがレイラの耳の中で鳴っていた。  食い入るように閉じられたドアを見つめる娘の眼に、そっと滲むものがあった。  戸口へ行きかけた服の裾を細い手がつまんだ。 「グローヴ!?」 「……レイラ……あいつの言うこと……聞くんじゃないだろうね……」  毛布の下から、陰々と引きつるような声であった。 「……あいつの……言うことを聞いて……ぼくや兄さんたちを……見捨てるんじゃないだろうね……忘れちゃいけない、レイラ……あのことを[#「あのことを」に傍点]……」 「やめて!」  振りほどこうとした細い手は、強靭すぎるほどの力でレイラを呪縛していた。 「忘れちゃいけないよ……レイラ……おまえはぼくたちみんなのものだということを……」    3 「バルバロイの里」を見下ろす岩壁の上に、ふたつの影がイモリのようにへばりついていた。  言うまでもなく、カイルとボルゴフである。並みの旅人には到底登山不可能な岩山も、この二人には要害の役を果たさなかったようだ。  平岩の上に寝そべり、電子双眼鏡で村の中を調べていたカイルが顔を上げて、これも少し離れたところで別の個所を探索しているボルゴフに言った。 「畜生、馬車も中身も、森の中へ入ったきり出て来ねえぞ。ここへ引っ張り込まれたのと同じ手で、もう脱出したんじゃねえのか?」 「わからねえ」  ボルゴフも頭を振った。 「といって、のこのこ訊きにいくわけにもいかねえしな」  カイルも沈黙した。  なんとかここまで気づかれず登ってきたものの、さすがに里へ忍び込むことは、この二人の魔人にもためらわれたのである。それどころか、昼間はそれ以上近づくことも危険と、ハンターとしての本能が教えた。  別段、見張り塔も、見張りの影もない平々凡々とした隠れ里のようだが、何の変哲もない岩陰や木立に、実は刃のように鋭い敏感な眼差しや気配が潜んでいる。  眼と眼だけで相談し、忍び込むのは夜、それも、監視の眼が緩んだら、ということになった。  馬車の主がこの里へ招き寄せられたのは、彼らから身を守る護衛を雇うためにちがいない。  できればその前に斃したかったが、事ここに到っては、それは不可能だ。自分たちと比肩する、あるいは凌駕さえするかもしれぬ化け物たちの集団へ忍び入り、目的を達する自信は二人にもなかった。  すると、馬車が出るまで待つしかないが、これにも危惧が伴う。この里へ馬車ごと運び去られたように、彼らにも想像がつかぬ方法で脱け出る可能性は極めて高く、それを見抜く手段はなきに等しい。  せめて、貴族の目的地でもわかっていれば先回りという手もあるのだが、獲物の名前さえ知らぬ現状ではとうてい無理だ。  このままでは——とマーカス兄弟は焦った。焦るばかりで時だけがすぎた。  最初、この場所へやってきたとき、馬車は広場から木立の中へ移動するところだった。周りから人々が散ったのを見ても、何やら話し合いがあったらしい。貴族が昼間眠るのは常識だが、こと、この里では通用しそうにない。  果たして彼らは何を——いや、内容はほぼわかっている。  どんな護衛を何名雇い、何処へ向かおうというのか。  陽光が昼近くになり、岩肌がぬくみから熱を帯び出してもいかなる策も出ず、ボルゴフの顔にもはっきりと焦りの色が見え始めたとき—— 「兄貴——野郎は!?」  カイルの驚きの声を、じっと眼で制止しつつ、ボルゴフも胸の中で驚愕を噛みしめていた。  彼らの左前方、里へとつづく黒い洞窟を悠然と抜け出た人影は——Dではないか。 「あいつは、溺れたはずだ——ダンピールじゃねえのか!?」  カイルの質問にもボルゴフは答えない。彼自身、信じ難いことであった。 「と、すると……ノルトはやられたな」  はっと兄の方を見たのも一瞬で、カイルの顔はみるみる憎悪に彩られた。 「野郎……よくもノルトの兄貴を……生かしちゃ帰さねえ……なあ、そうだろ兄貴……」  うなずきはしたものの、ボルゴフは沈黙したままだ。それがいかに容易でないことか、Dがここに現れた事実だけでボルゴフには理解できた。  貴族とバルバロイの護衛——それだけでも斃すのは生命がけなのに、魔人的迫力では彼らも及ばないダンピールの若者が敵にまわっては…… 「野郎、おれたちと同じくあの里を調べに来たにちがいねえ。今がチャンスだ。こっから円月刀で仕留めてくれる」  立ち上がりかける弟の肘をボルゴフの手が強く押さえた。 「待ちな。みろ、あいつ真っすぐ門の方へいくぞ。見張りじゃねえ。直談判に行く気なんだ」 「なんだって。——畜生、なお、まずいじゃねえか。このままでいくと、あいつに先を越されちまうぞ」  粗暴な四男の言葉は真実をついていた。  じいっと宙をにらむボルゴフの顔が、みるみる沈痛になり、額には汗さえ滲み始めた。  少しして見開いた眼には凄惨な色があった。 「仕様がねえ。やりたかねえが、グローヴに頼もう」  と彼は言った。 「おい——」  とこわばった声をあげたのは、二日前、死人の村へ入ったとき、そのグローベックを斥候に出せと言い、ボルゴフに睨みつけられた四男坊だ。  あのミイラと化したような若者に、この困難を打開するどのような力が秘められているというのか。 「ここはおれが見張る。カイル、グローヴに発作を起こさせたら、すぐに戻ってこい」 「いいともよ」  答えるカイルの顔に、何とも淫蕩な笑いが浮かんでいるのは何故だろう。  それも束の間、岩上で身を翻すや、黒光りする革の胴衣を陽光に煌めかせつつ、彼は魔獣のように軽やかな足取りで岩山を下っていった。  どれひとつ踏んでも岩崩れを起こさずにはおらぬ危険極まりない岩上を。  木と石をワイヤーでつなぎ、獣皮を張りつけたような奇怪な門の手前五メートルほどまでくると、Dは馬の足を停めた。  無言で眼前にそびえる柵を見上げる表情は、眉目秀麗な若き哲学者か詩人の趣さえあった。  ずわり! と空気が動いた。  一体どこに隠れていたものか。人影どころか気配さえなかった木陰や岩の間から、数人の人間たちが出現し、Dを取り囲んだのである。  どの顔も浅黒く精悍だが、中にいくつか、透き通るほど青白い奴や、不気味な鱗に包まれているものも混じっている。初対面の旅人なら、その不気味さと妖気に腰を抜かしかねない連中が、何故かDだけは遠巻きにしたきり近寄ろうとしない。  彼らの顔に浮かんでいるものが、畏怖と感嘆だと知れば、地獄の魔王も目を剥くのではなかろうか。  じろりとDが一瞥するや、彼らはたじたじと後退したのである。 「おれは|吸血鬼《バンパイア》ハンターD。用があって参上した。開門願いたい」  声と同時に、不可思議な門は音もなく内側へ開いた。  もはや背後と左右の見張り役には目もくれず、Dは悠然と馬を乗り入れる。  入ると同時に凄まじい気がDと馬を包んだ。D自身の放つ鬼気に触発されて、空気中の妖気が一斉に襲いかかったのである。Dは顔色ひとつ変えず、馬の足取りもまた変わらない。  数歩進むと、渦巻く妖気はすっと消滅した。  なおもDの周囲を離れぬ男たちが、驚きの表情を見交わす。鬼気が妖気を破ったのだ。  Dの周囲に里の光景や、里人たちの姿が流れ始めた。  ここは岩山の中腹に生じた広大な森林地帯であり、住居は岩と木を組み合わせて造られていた。武器や食料はある程度自給自足の手段が整っているらしく、木立の中にひっそりと、工場らしい建物が窺える。  柵の内側には旧式ながら大口径レーザー砲や超音波砲の姿も見え、外敵への備えはほぼ万全といえた。  だが、驚くべきは村人たちの姿であったろう。  着ている服はどこの村落でも見かける平凡な野良着、仕事着だが、そこからはみ出た手や足や顔は、人間の姿を留めているものがきわめて少ないのだ。  あるものは蛇そっくりの鱗に覆われた顔の下、唇らしいところから赤い舌をちょろちょろと覗かせ、またあるものは、狼のごとく全身が剛毛で覆われている。奥手の水泳用プールで水を撥ね返すものはあどけない少年だ。だが、彼の首から下は鰐の胴、鰐の四肢ではないか。  世に妖婚なるものが存在する。  すなわち、魔性の獣と人間との婚姻だ。  そして、ここに、バルバロイの里に住むものは、すべて、その忌わしい関係の果てに生まれた子供たちなのであった。  下界の人間が見たならば失神しそうな魔人たちの間をDは黙々と進み、やがて広場と|思《おぼ》しき場所に出た。  その中央に黒い馬車と、白髪の老人が立っていた。  広場の入口で馬を停め、Dは地上に降りた。 「ほう」  と老人が地に触れそうな白髯を撫でつけた。 「馬から降りたか。年寄りに対する礼儀をわきまえておるの。しかし、わしにもわからぬ。あの岩山をどうやって馬で登ってきたか……」  地を這うような声が届いたかどうか、Dは手綱を取って老人の方へ歩き始めていたが、二メートルほど手前で立ち止まると、右手で黒い馬車を指さした。 「あの馬車の乗客二人、渡してもらいたい」  老人は破顔した——といっても、顔じゅうの皺が笑いの形に伸び上がっただけだが、つづく笑い声には嘲弄とも取れる響きがあった。 「ほっほっほ。誰も叶えたことのない方法でわしらの里を訪れた若者。いいとも、と言いたいところじゃが、遅かった、遅かった。わしらはもう、あの馬車の側についておるよ。契約をすませ、金ももろうた。今は幻の金、一万ダラス金貨を十枚もな。おまえにそれだけ払えるか?」 「払えば、依頼人を売るか?」  あくまでも静かなDの言葉に、老人の顔からさっと笑顔が消えた。  怒りの形相も凄まじく、その杖を振るかと見えたが、意外にも彼は、折れ曲がった腰まで伸びるような勢いでそり返り、笑いだしたのである。 「ほーっほっほっほっ。この里をバルバロイの里と知って、よくも言いおった。いや愉快、愉快。わしにそんな口をきいたのはちょうど三二〇年ほど昔——」  奇妙な表情が老人の顔をかすめた。  霧の彼方に眠る茫漠たる記憶を感覚の鈍った指で探り当てるかのように、もどかしげに眼を細めていたが、それが、はっと見開かれたとき、瞳から驚愕の色がこぼれた。 「その顔は……おまえは、もしかして……」 「おれは|吸血鬼《バンパイア》ハンターだ」  Dは静かに言った。 「娘をさらわれた親に頼まれ、張本人を追ってきた。ここへ辿り着いたのは、その結果にすぎん。だが、おぬしらの立場もわかる。彼をここから出したら黙って追わせてもらいたい」 「ほう。ますます筋の通った男じゃの」  老人はうれしくてたまらないといった風に杖で地べたをはたいた。 「それに免じて、教えてやろう。彼の依頼をな。ひとつは、おまえと他のハンターたちから身を守る護衛の雇用。いまひとつは、必ずここを訪れるDという名の若者の抹殺じゃ」  ざっと広場を殺気が埋めた。会話のあいだに、二人の周囲は、おびただしい数の村人によって包囲されていたのである。  誰も武器を手にしていない。にもかかわらず、その誰ひとりでも、人間のひとりや二人は簡単に処分することができると知れる恐るべき雰囲気が彼らにはあった。 「どうするな——D。わざわざやってきたのは見事じゃが、出ていくのは難しくなったな? そこに居並ぶ男ども女ども、ひとり残らず驚天の術を身につけておる。いかに秀れたハンターといえど、全員を倒すのは不可能じゃ」  まぎれもない真実を語る老人の前で、Dは何をしていたか。  彼は空を見ていた。  澄み切った青とそれにじゃれる雲を見つめていた。  包囲網を敷いた里人たちが顔を見合わせたほど、ひたむきな表情であった。 「奴——あそこへ行きたいのか」  つぶやきを生命乞いとでも取ったか、化鳥のごとき声をあげてひとりが跳躍した。  立ち上がると全体的に楕円形で、そのくせ腹の方だけは平べったい、亀を思わせる男であった。  手足は極端に短い。  Dの顔めがけて、それがぐうっと伸びた。指の先は爪と溶け合い角質化していた。触れただけで骨ごと肉がもっていかれる。  空中と地上と——二つの影が交差し、むっくりした男は軽やかに着地した。  血の霧を呼んだのは、里人たちのどよめきだったろうか。  Dと男が交差した瞬間、眼にも止まらぬ速さで迸った銀光を、何名かは認めたのである。  いや、彼らはDの一閃を食らう寸前、確かに服の内側へ引っ込んだ男の首を見た。この男の全身は、まさしく亀のように銃弾も通さぬ甲羅に覆われ、手も足もバネ仕掛けのごとく伸縮するのであった。  それが、着地と同時に縦にはぜ割れた。  下から現れた男の顔も、蛇腹みたいな首も腹も、股間まで真っぷたつに断ち切られ、男は血煙をあげつつ倒れ伏した。  初めて、男たちはDの右手に光る刃を見た。  朋輩を討たれた激怒にまかせ二番手を買ってでるものはいない。  魔技ともいうべきこの若者の剣の実力を骨身に沁みて悟ったのである。  攻撃を受けたときと寸分違わぬ姿勢と位置で、Dは静かに老人へ向かって言った。 「おれを殺すのはいいが、里人も何人か死ぬ。黙って夜までいさせてくれないか。馬車が出たら、おれもすぐ後を追う。——それだけだ。おぬしらが逃亡を助ける契約を結んだ以上、おれは何も訊かん」  老人の下したDに対する死の宣言が真実ならば、Dの言葉もまた真実であった。 「……やはり、そうか……」  老人が納得顔でうなずいた。 「その実力、その器量……やはり……」  そして、右手を振って里人たちを遠ざけると、疲れたような声で意外なことを言った。 「あなたが相手では、里のものすべてが血の池に溺れようと、逆らえませぬ。無礼の段、老いぼれの痩せ首ひとつでお許し願いたい」 「何を言う!」  ひとつの怒号が、里人たちの人垣を割った。  老人とDの中間に進み出たのは、不気味なほど深い|藍《あい》色のドレスに身を包んだ女であった。  剥き出しになった右肩の桜色の斑点が、白い肌に異様に目立つ。声は毒素にまみれた絶叫であった。 「なにを弱気なことを——長老よ、里の掟を忘れたか。誰であろうと、我らの助けを求めに訪れ、しかる後、契約を交わした相手の要望は、死しても守らねばならぬ。そう、わたくし、カロリーヌとマシラとベンゲとで」 「左様」と野太い声が和した。  人の輪を押し退けるようにして、中肉中背の中年男が鼠色のコートの裾を閃かせて女の横に並んだ。 「一度取り交わした契約を破ることは、里の掟の崩壊のみならず、里そのものの滅亡も意味します。長老、この若造、われら三人におまかせあれ」 「同感ですな」  三番目の声の反応は劇的であった。  それは中年男の背後からした。  予期していなかったことか、男は一瞬、身を竦ませて跳び退いたのである。  二人にはさまれ、その背後に立つのは、全身が異様にひょろ長い、カマキリみたいに痩せた男であった。顔も手も墨を塗ったみたいに黒く、コートもまた暗夜の色だ。同色のレザーに身を包んだカイルとは、また別の不気味さを漂わせていた。 「さっき、会ったな」  と黒い男はDにウインクして言った。  成程、この男なら、太い棒の陰にでも隠れれば誰の眼にもとまらなくなると思えるほど細い。もっとも男のかたわらには一本の木もなかったが。 「自己紹介するよ。あちらの美女がカロリーヌ、こっちがマシラ。そして、おれがベンゲだ」  にこやかに長老の方を向いて、 「ここまで来たらもう仕方がない。長老が止めてもおれたちはやりますよ。なんなら、里人の資格を剥奪して下さい」 「わたしは、こ奴の仲間に肌を傷つけられた」  とカロリーヌが左手で桜色の斑点を押さえながら震える声で言った。 「忘れん。あの痛みは忘れん。こやつの胸に鋼鉄の楔を打ち込んでも癒えまいぞ」 「われわれの他にも、賛同者はあるはず——前に出よ!」  中年男——マシラが呼びかけたとき、 「愚かもの!」  さしもの三人ばかりか、前へ出かかっていた村人さえ竦ませる大音声を老人が放った。  その小さくしぼんだ猫みたいな姿が、突如数倍にも膨れ上がって反逆者たちを震え上がらせたようであった。 「うぬら、わしが村の創立時からこの姿だったことを知っておるか。うぬらの先祖——妖魔とまぐわい、故郷を追われた者たちが、いかに辛苦の汗を流し、この岩山に、今棲む里を造ったか。よいか、すべては一度、崩壊しかけたのじゃぞ」  過ぎたことなど考え及びそうもない若者たちも、老人の声に含まれる執念に釘づけとなっている。耳を押さえても手のひらを透して忍び入りそうな声であった。  これを無視できるのは、孤影飄然と立ち尽くすDだけであったろう。  老人の血の叫びはなおもつづく。 「去りし日、過去暦一万年の初日、この土地は、地中より恐るべき毒素の噴出に見舞われたのじゃ。里人の半数が死亡し、残りも全身を腐り爛らせ、死を待つばかりとなった。そこへ、あるお方が現れなければ、里は死神の棲家となり、うぬらの誕生もなかったであろう。  よく聞け、そのお方はな、ある遠大な目的をもって旅をなさっておられた。わしらの噂を聞いていのいちばんに駆けつけられ、そして、こう申されたのじゃ。この里より五名、最も強くたくましき男を我が旅に同行させよと。さすれば、汝らの里に降りかかった禍い、たちどころに望む形の幸運に変えてくれようと」  恐らく大半の者は初めて聞く内容であったろう。唐突な昔話にとまどい困惑する彼らは、このとき、ふたつのことが起きたのに気がつかなかった。  ひとつは、話のどこに触発されたのかDの眼が爛々とかがやき出したことであり、いまひとつは、固く閉ざしたはずの正門のあたりから、人気のない里の道を横切って、ひとりの青年が広場へと向かっていることだ。 「この広場いっぱい、いや、この里全体に、腐りかけ死にかけたものどもが呻いておった。その彼らが、このお方の呼びかけを耳にした途端、苦しみもがくことも忘れたのじゃ。そして、あちらの瓦礫の陰からひとり、枯れ切った樹木の向こうからひとりと、まるで招き寄せられるようにその方のもとへ集まった人数は——まさしく五人。それも、誰もが認める屈強な|強者《つわもの》どもであったのじゃ」  広場の入口へ若者が差しかかった。ひょいと覗き込み、血色のいい頬に愛くるしい笑いを浮かべ、とことこと入ってきた。 「そして、バルバロイの里は甦った」  老人の声は限りなく低くなった。 「五人を引き連れてあの方が立ち去るとすぐ、なんと、里の大地はみるみるうちに天空へと盛り上がり、この位置に来た。息を三つするうちに木には若芽が吹き、花は実を結んだ。地中の毒素が無害なまでに薄められたのは後に知れたこと。そのときのわしらは、ひたすらあのお方の名を唱え、地べたに顔をこすりつけた。——聞け!」  老人の声は全員に下知する長老のそれとなった。 「若きおのれらの知らぬ掟に言う。その方ご自身ないし血族の方が現れた場合に限り、この里のものすべては、後出の掟を曲げて、その方の要求に従うと!」  凛然たるそれは命令であった。  三名の反逆者も声もない。  風に黒髪を揺らす美しいハンターへ、老人は大きく一礼した。 「長いことお待ち申しておりました。あなたさまのご要望すべて叶えるよう取り計らいまする。あの馬車を破壊するも、あのまま灼き尽くすも、我らはお言いつけに従いまする」  畏怖を超え、畏敬の眼差しで見つめる里人たちの耳に、Dの返事が聞こえた。 「ありがたいが人違いだ。その三人の望み通り、馬車を守って行かせるがいい。おれもすぐ後を追う」 「何をおっしゃる!」  老人は驚き、 「ふははは、正直な|男《ひと》だ」  黒いベンゲが高笑いを発した。 「さ、自分で吐いた以上、長老の掟も無意味。せめてその正直さに免じ、他の者には手出しをさせぬ。おれたち三人で相手になろう」 「冥土の土産に教えてあげよう」  とカロリーヌが真紅の唇を吊り上げて笑った。 「馬車の目的地は、クレイボーン・ステイツさ」 「いくぞ——若造」  マシラが叫んで身を屈めた。  背にでも隠していたのか、右手に分厚い斧が光る。  さすがの老人も三人の猛攻を止める手立てを持たぬように見えた。  そのとき—— 「誰だ、おまえは!?」  激しい詰問が人垣の後方で聞こえ、すぐぎゃっという悲鳴に変わった。  砂をはじき飛ばして人の列が交差し、ひと筋の道がつくられたその一方の端に、薔薇色の頬をした青年がにこやかに微笑んでいた。誰でも微笑み返したくなるような、天使を思わす笑みであった。  だが、その足元から立ち昇る悪臭は、倒れた里人の胸からあがる煙のものだ。どのようなエネルギーの直撃を受けたのか、彼の胸と背には、周囲を炭化させなお炎を上げる傷口が、見事な真円を形作っていた。  Dは黒い流星と化して宙に舞った。  寸秒の差でもとの[#「もとの」に傍点]位置を貫いたレイ・ビームは、遮るものもなく直進し、広場の端に停車中の馬車に命中した。 「いかん!」  叫んだのは誰か。  飛び散る火花と電撃に驚いた馬は、ひときわ高くいなないて、広場の反対側の出口へと殺到した。 「裏門を閉めろ!」  老人の叫びに応じて何人かの里人が駆け出し、次の瞬間、横薙ぎに襲うビームに首を砕かれてつんのめった。  一体どこから出るのか、眼を凝らしても、広場は今や光条の乱舞するところと化し、逃げまどう里人の姿も光芒の彼方に閉ざされてしまう有り様で、殺人光線の発射点などまるで掴めない。  ただ、振り返って見た誰の眼にも鮮明なひとつの光景は、広場の入口近くに立って、恍惚たる表情で光の乱舞を見つめる青年の姿だ。  死の光線を弄ぶ嬉々としたその姿は、生の歓びに満ち溢れた感動的なものであった。  だしぬけに、広場は元の色彩を取り戻した。強烈な白の余韻か、木々の緑も茶の家々も、どぎついまでに色濃く視界を灼き、徐々に自然の色彩へと復帰する。  広場の端に寄って、あるいは地に伏せながらも超常現象の成り行きに眼を向けていた里人たちは、十メートルの距離をはさんで相対するふたつの影を見た。  天使のような笑みを浮かべた青年と、月輪のごとき麗貌のハンターと。  黒影の疾走が速かったか、白光の奔流か。  白熱の一撃をかわして走るDの身体を二本の光条が貫くのを見て、誰もがあっと叫んだ。  何を目撃した叫びか。  Dは左手を胸前にかざしていた。  二筋の光条はその手前で方向を変え、一本にまとまり、手のひらの中へと吸い込まれたのである。  青年は動かない。  笑みもまた喜びに満ちていた。  その頭頂から下顎にかけてDの一閃が流れた。  手応えはなく、Dは広場のやや端寄りの位置に、一刀を振り下ろした姿勢のまま立ち尽くしていた。  青年は忽然として消滅したのである。  それが自分の成果ではない証拠に、Dの顔には昏い翳が湧いている。 「D——様、ご無事か!?」  老人が駆け寄ってきた。  答えずDは広場の反対側を振り返った。馬車の姿はない。 「裏から下山できるのか?」  と訊いた。  老人はうなずいた。 「村のものだけが知っておる抜け道がありましてな。——しまった!」  老人は四方へ眼をやった。  Dにもわかっていたかもしれない。  マイエルリンクに雇われた三人の凶人の姿は、どこにも見えなかった。  抵抗がいつものように喘ぎに変わった女体から、カイルは熱い唇をはなした。  今まで死の沈黙を保っていたベッドから、低いが切迫した息づかいが洩れている。 「畜生——今度はやけに早く戻ってきやがって」  舌打ちして立ち上がった。 「おい、早く点滴の準備をしろ」  と全裸のレイラに命じる。きっ、と、涙の痕も鮮やかな顔で兄をにらみつけ、レイラは素早く脱がされた衣服をまとった。  強く吸った唇の痕や噛んだばかりの紫の歯型へ眼をやり、カイルは舌打ちした。 「へっ、いつもの通り、おとなしく言うことを聞いてりゃいいんだ。何だか知らねえが、今日にかぎって無闇と暴れるからそんな目に遭うのよ。へへ、もっとも、おかげでグローヴの奴も興奮しやすかっただろうがよ」 「やめて」  豊満な乳房へ伸びてきた手を、レイラは振り払った。 「この頃、自然発作の間隔が随分短くなってるのよ。それだけでも、グローヴの寿命は削られてるのに、この上、無理に発作を起こさせたら、どうなると思うの? 兄さんのエネルギーが暴走したら、どんな恐ろしい結果を引き起こすか、誰にもわからないのよ!」 「けっ。そんな先のことまで読めるかよ。問題は今だ。結果は、ボルゴフの兄貴が帰ってきたら、じき、わからあ。——いや、その前におれが訊いてみよう。どきな」  邪慳にレイラを押しのけ、カイルは三男の枕元に寄った。 「なあ、兄貴、おれだよ、カイルだ。あそこ[#「あそこ」に傍点]で見てきたことを話してくれ。行く前に探るよう頼んどいた事柄、どうだった?」  しゅうしゅうと、臨終の病人が洩らすような音がしばらくつづき、途絶えた。  ぐえっという喘ぎ。  毛布の下にいるものが洩らした声ではない。カイルの喉笛を青白い細い手が掴んでいた。 「……ききたいか、カイル、ききたいか……おまえだけでレイラを独占して……ぼくだけに辛い苦しい思いをさせて……ききたいか……?」 「ああ……ああ。ききてえよ」  必死の答えであった。  すっと手が落ちた。  か細い声が、すすり泣くように、 「獲物の行く先は……クレイボーン・ステイツだ……」 [#改ページ] 第四章 殺人ゲーム    1  なだらかに蛇行する街道が二股に分かれる地点で、宵闇が森を包み始めた。  古風な燭台を模した電子照明のスイッチをそっと切る。室内に青い闇が満ちた。  ひとりだけの昼は終わり、これから二人の世界が始まる。  車内のひと隅を占領している黒檀の|棺《ひつぎ》が開く音を少女は好きだった。  やがて、彼の手が現れ、蓋を押し開ける。  彼は立ち上がり、いつもの癖で伸びをひとつ。  そして、小さな椅子を引き寄せ、少女の前に腰を下ろす。  ありがとう。  と彼は言う。明かりを消したことへの礼だ。  つけておいてもよかったのに、などとは決して口にしない。  ありがとう。  これだけだ。  二人の馴れ初めは、春の森だった。  旅の馬車が、小鳥を追っていきなり飛び出してきた少女を撥ねかけ、たったひとりの乗客兼御者がすり傷を手当てするというよくある物語も、登場人物が人間と貴族では、悲惨な結末しかあり得ない。  だが、時には例外があるものだ。  少女が相手を貴族と知り、  貴族が相手を人間と知り、  それでいて、恐怖も侮蔑もなく、魅かれ合ったということも。  森での散策は甘美だった。初めて、少女は闇を恐れなかった。  彼が教えてくれたのだ。夜にもまた、幾多の生命が溢れていると。  少女は川の流れる音を聞いた。月輪にとび跳ねる月光魚を見た。  夜咲くジャスミンの香りを嗅いだ。  風の奏でる詩を聴いた。  小さな小さな蛙の合唱。  夜もまた光に満ちて——必ず彼がそばにいた。  彼も同じだった。  人間を下等と見なかった貴族界の異端者。  昼をもまた愛し、ついに陽光を見ることなく没落を迎えた男爵。  あてもない放浪の旅に、ついに目的地が見えた。  少女が与えてくれたのである。  旅は苦渋に彩られていた。  村人やハンターたちによる貴族狩りの魔手を逃れ、極寒の氷河を渡り——  凶風荒れ狂う高峰の山道を走り——  目的のある旅ならばよい。  滅びの道はあっても、滅びへの距離はなお遠かった。  そして、彼は少女に会ったのだ。  昼の光を浴び、生命に溢れて森中を飛びまわる娘に。 「身分」が何になろう。 「生物学的相違」が何になろう。  二人は自分にとって大事な人を知っていた。  それだけだ。  昼と夜の邂逅は、やさしい眼差しと、恥じらいながらそっと握り合う手で始まる。  一七歳になったばかりの娘。そのこころの戦きと希望を、彼は理解することができた。  それならば、貴族と人間は、ひとつになれるのではないか。  だが、この世界では。  で、彼は切り出した。二人きりで行ってみないかと。  少女はうなずいた。どこへでも行きます。あなたとなら。  そのとき、初めて二人は口づけを交わしたのだった。吸うことへの渇望も、吸われることへの恐れもない、熱く、だが、恥ずかしげな口づけを。  悲劇は翌晩起こった。  少女の家出に気づいた父親の折檻を見かねた彼の乱入。  初めて、彼は憎悪を込めて人間の血を啜った。  だが、そんな彼も、父親が吸血行為に対し異常に反応する体質だったことに気がつかなかった。  吸血された人間が貴族と同じく血に飢えたものになるか、単なるミイラと化すかは、吸血する貴族の意図による。  ごくまれに、彼らの意図に反して、犠牲者の肉体だけが変形する場合も起こるのだ。  吸血されたものが、単なる血液の消耗だけで人間のままいられるような。  ひからびて死ぬはずの男が、吸血鬼と化すような。  彼に吸われたものすべてが、たったひと噛みで同じ悪鬼となるような。  父に襲われたものが別の犠牲者を求め、村が一夜のうちに疑似貴族と変わるのを、激しい打擲に失神した少女は目撃しなかった。  眼が覚めると、彼の眼差しがあった。  こうして旅が始まったのだ。  クレイボーン・ステイツへの旅が。 「里へ行った望みは果たしたが、彼は始末できなかったらしいな」  電子アイ応用の記憶装置で昼の出来事を確かめながら彼はつぶやいた。 「それに、おかしな力を持つ男にも、行く先は知れたろう。この馬車の速度では待ち伏せされることも十分考えられる。先手取りだな」  不審そうな眼を向ける少女に、じき目的地だよと告げ、彼は車外へ出た。  馬車の脇に付き添うふたつの影が一礼する。ひとりは馬、もうひとりはひとり乗りの小型の馬車——女だ。 「ようこそ。わしがマシラ」 「わたしがカロリーヌ。お出でをお待ち申しておりました」 「ひとり足らんな」  貴族の声と威厳とをもって彼は言った。  マシラがうなずいた。 「はっ。この先の森で、敵を待ち伏せしております」 「敵を? ひとりでか?」 「左様で」 「ご案じなされますな」  とカロリーヌが妖しい声で言った。マイエルリンクは知らぬことだが、藍色のドレスからのぞく肩に、もはや傷痕は影も形もない。  ねっとりとした眼つきで御者台へ移った雇い主を見上げながら、 「あの男は何もいたしません。ただ、あなたが長老に聞かせた別のハンターとやらの顔を覗きにいったのでございます」 「別のハンター?」  とマイエルリンクは美しい顔をしかめ、 「彼[#「彼」に傍点]以外の吸血鬼ハンターの実力などたかが知れている。いや、待てよ——おまえたちの村で暴れ狂ったあの青年もそのひとりか?」 「恐らくは」  とマシラが同意した。 「あなたさまのおっしゃられた車を操る女もそのひとり。他にもいるかもしれません。で、ベンゲは拝顔の栄誉を授かりに……」  マイエルリンクは沈黙した。「避難所」で休息中の彼らを襲った娘と防御機構との戦いは、記憶装置で知っている。  かなりの重傷を与えたはずだが、生きているとなれば厄介な相手だ。まして、広場での若者がコンビともなれば……。 「だが、いかにおぬしらの仲間といえど、わたしは名声のみでその術までは知らん。いかなる術を使うにしても、わたしの背後に迫る敵すべてを斃すのは容易なことではないぞ。まして、ひとりでは……」  二人の護衛は顔を見合わせた。  笑ったとマイエルリンクにわかったかどうか。 「まあ、じき、バーナバスの街に着きます。そこで戻ってきた彼に、話を聞かれるがよろしかろう。ただ、これだけは申し上げておきますが。すでに彼と会い、なおも追いすがってくるものがあれば、今夜のうちに、確実に生命を落とすこと間違いございません」  貴族たるマイエルリンクを一瞬、当惑させるほど、それは自信に裏づけられた言葉だった。 「それよりも、|内部《なか》の奥方を紹介してはいただけませんか?」  とカロリーヌが申し出た。 「いざというとき、お顔を知らぬでは、何かと不便を生じますれば」 「左様」  とマシラもうなずいた。  ちょっと考え、マイエルリンクは身を屈めてドアを軽く叩いた。 「顔をお出し」  轟音とともに疾駆する馬車の内側で、どうやってそれを聞き取ったのか、青い窓ガラスが開くと、恐る恐る可憐な顔が闇を抜けた。 「おお」  とマシラが口走ったのは、あながちお世辞ではあるまい。 「お美しい方で」  カロリーヌも言ったが、こちらは御者台の方に熱い視線を注いでいる。 「ありがとう」  とマイエルリンクが言い、窓は閉じられた。  このときすぐ、貴族たる彼の聴覚にも感じ取れぬほど小さな声で、 「ぐふふ……わし好みの美形。ひとつ、ものにしてやるか……」  とつぶやいた奴がある。  どう見ても、それはこの場にいない四人めの男の声であった。  昼間の晴天とは打って変わって、鉛みたいな雲の立ち込める夜の空であった。  小一時間前、馬車と二人の護衛が走り去った街道を、黒衣の影が疾走してきた。  月はなくても、おのずと光を発するがごとき美貌の主は誰か、いわずと知れたものだ。  一時間分の隔たりも、彼が順調に進めば二〇分としないうちに埋められてしまうような疾駆ぶりが、左右に巨木が立ち並ぶ森の中ほどへ差しかかった途端、ぴたりとやんだ。  雲はでているが、完全な闇ではなかった。  Dの眼には昼間と同じである。  馬を停めた位置から前方十メートルほどの道の上に、そこだけ巨木の枝が大きく張り出している部分があった。  その下に、細長い影がつくねんと立っていたのである。  Dだけがその正体を見破った。  三護衛のひとり——ベンゲである。  少し前、マシラがマイエルリンクに告げた言葉によれば、Dと会いに来たそうだが、彼との対面は、二人の関係からすれば即、死闘を意味する。ましてや彼はDの実力を知っているはずだ。  バルバロイの里での抗争と、レイラに取り憑いていた広場での一件で。  それを承知で現れた以上、よほどの、絶大なる自信を秘めているものと考えなければなるまい。 「やあやあ」  と細い手をあげた陽気な挨拶は、しかし、眼が笑っていない。 「残念ながら、ここは通れない。といって道はこれ一本。故におれたちのうちどちらかが脇へ退かなきゃあならない。——死体になって」  気取った言いまわしに、何がしかの反応があると、ベンゲは思っていたのかもしれない。それが、おおと恐怖の叫びをあげたのは、馬上から稲妻のごとき速さで彼の頭上へ舞ったDの姿を捉えたが故だ。  まさに問答無用。鞘走れば敵の血を吸わずにおかぬDの一刀、逃げる間もなくベンゲの脳天はふたつに割れた。  着地したDが即座に身をひねり反転したのは、刀身から伝わる手応えのなさ故であった。  両断されたはずのベンゲの姿はなく、足元にわだかまるのは、一枚の黒い布だけであった。  ベンゲが身につけていたものだ。  不気味な含み笑いがDの首筋を打った。 「驚いたね、恐ろしい男だ。おれでなければ真っぷたつになってたとこさ」  Dは動かない。彼の超感覚をもってしても、ベンゲの気配は杳として感知できなかったのである。  声は文字通り、どこからともなく聞こえた。 「ほんじゃ、ま、次はおれの番だな」  Dの右手がちらりと動いた。  二条の閃光が煌めき、世にも美しい音と火花が散った。Dの首筋で。  忽然と背後に出現したベンゲの振り下ろした短剣を、手の動きだけで後方へ跳んだDの刃が受け止めた結果であった。  振り向きざま横殴りに振るった剣先に、しかし、ベンゲの姿はなかった。  Dは地を蹴った。  五メートルもの距離を跳躍し、着地と同時に再び跳んだ。  いかなる気配も捉え得ず、二度目の足が地面に着いたとき、 「フフフ……無駄、無駄」  ベンゲの声が笑った。 「もうひとりの[#「もうひとりの」に傍点]おまえさんがここにいる限り、おれもここにいるよ」  ふわり、と前方の森の中に影が立ち上がった。  Dの左手が走り、白い稲妻となって空気を灼く。  白木の針が後方の木の幹に縫いつけたのは、これも黒い薄布であった。  その向こうで、またもうひとつの影が起き上がる。  ——誘いか。よかろう。  Dは一気に森へ走った。  街道から森への誘い——どんな策があるのか。  じわりと熱を含んだ湿気が四方から襲う。  風を切る鋭い音。  左右から矢継ぎ早に飛来する銀光はすべてDの剣に打ち落とされた。 「ほう。大したもんだ」  ベンゲの声は掛け値なしに感嘆の響きを含んでいた。 「おれがここにいる限り、おまえもここにいると言ったな?」  Dは淡々と言った。凄まじい攻撃をかわした気ぶりもない。 「わかったぞ。おまえの術——」 「なにィ!?」  驚愕と憤怒を隠すように、短剣が飛来した。  一本は右前方から、もう一本は遥か後方の繁みから——ほとんど同時に。敵は複数なのか!  無造作にそれをかわし、Dは身を屈めた。頭上をびゅっと白光が薙いだ刹那、左手を後方に振った。握った白木の針が肉に食い込む感触。  げっ、と苦鳴があがる。  軽く前に一歩出て、Dは奇妙なことをした。  いま、何かを刺した方を振り向くと同時に、もう一本の針を足元の地面へ打ち込んだのである。  彼は言った。 「どうした? 針を抜かなければ、影へは入れんぞ」  どこかで歯ぎしりの音が聞こえたと思うと、地面に落ちたものがある。血に染まった白木の針だ。  それは、何もない地面から放り上げられた[#「上げられた」に傍点]。薄明が辛うじて地面に落とす木の影の中から。  おまえがここにいれば、おれもここにいるとDに言った謎。  眼を凝らせば見える。見えないと思うから見えない——こうレイラに告げた秘密。  ベンゲは影に潜むのだ。  ただそればかりではない。Dの影に入り込みながら、さすがのDにも気配すら掴ませなかった秘技がある。しかも、影から影への移動にはまるで時間を要さぬのか、彼の攻撃はおよそあり得ぬ方角から襲うのだ。わずかな時間のずれは、それを構え投じる際のタイム・ロスであった。  一度、敵の影に忍んでさえしまえば、彼は無敵の暗殺者と化す。敵が——Dでさえなければ。 「血止めをしたか。——だが、霧がでてきたぞ」  とDは言った。  その言葉が終わらぬうちに、彼の足元から、木立の奥から、白い流れがもうもうと溢れ出し、薄明の天地は光を失った。  光がなければ影は生じない。  Dだけは見た。  三メートルほど前方の地面に、それこそ一枚の黒布と化してへばりついた人影を。  勝負はついた。  その一瞬、影から小さな光球が投げ上げられたのである。  眼もくらむ光が白い世界を満たし、木立の影を地に落とした。 「ここはおれの負けだ。この次、会おうぞ!」  苦しげな捨て台辞は、遥か森の彼方でした。  Dは森を脱け、馬に跨った。あと数時間のうちに、標的を射程距離に捉えるはずであった。    2 「ふむ。ベンゲの奴、口ほどにもない。やられたな」  地面に耳をあてていたマシラが顔を上げて吐き捨てた。 「やはり、無理だったか」  と言ったのは、マイエルリンクである。  カロリーヌを加えた三人は、ベンゲの帰還を待つべく、森の中で夜営をしていた。  辺りに漂うのは、焚き火の輪の上で、木の枝に貫かれた鳥の香ばしい匂いであった。  マシラが手を伸ばしてそれを取り上げ、マイエルリンクに差し出した。 「召し上がりますか?」 「やらん」 「結構。貴族には肉など不要でございましたな」  いかにも気づいた風に言ったが、これは嘘だ。声にもどことなく悪意がある。  マシラは茶色の肉を裂き、口に頬ばった。黄色い歯が下品な音をたてて肉片をさらに細かく噛み砕く。  そんな相棒に眼もくれず、カロリーヌはマイエルリンクの横顔を見つめていた。何か口に入れたのか、マシラの焼き肉には見向きもしない。  恋するものとは異なる、熱っぽい、欲情にうるんだ眼で。 「彼がしくじったとなれば、敵は追ってくる。このままでは追いつかれる。すぐに出発した方がよかろう」  マシラの無礼な振る舞いに立腹したか、ぞっとするほど冷たい声で言うと、マイエルリンクは踵を返した。 「ご安心なされ。この敵は、すぐには参りません。別の馬車の跡を辿っておりますれば」 「別の馬車を?」  マイエルリンクは振り向いて訊いた。 「左様。いわば、影の馬車を。ベンゲの術でございます。一度それを追い出したら、永劫に追いつくことは不可能で」 「残念ながら、戦いに敗れた奴の術などわたしは信じぬ。今も、おまえたちを雇うたのは間違いではなかったかと、思案していたところだ」 「なにを仰せられる」  カロリーヌがあわてた風に言った。 「ベンゲごときの失策で、残るわたくしたちの実力まで不当に評価されては困ります。えい、ベンゲの愚かもの。いっそ、そ奴を逃がし、わたくしたちを追わせればよかったものを」  朱い唇の中で白い歯がきりきりと鳴った。 「なに、われらの実力はいずれ、と言わず、明日にでもわかる。追いかけてくる猟犬どもはもうひと組いるはずだ」 「おう、その通り。明日にでもわたしもベンゲと合流し、必ずや、そ奴らをひとり残らず斃してごらんにいれまする」 「まかせよう。だが、今夜は出立する。目的地も近い。明後日の夕刻には着くだろう。わたしたちの門出にふさわしい時間だ——。先に行く。後から来い。昼は森の中で眠っておる」  やがて、車輪の音もけたたましく走り去ると、一応、頭を垂れて見送っていた二人はすぐに顔を上げた。  マシラが薄笑いをしながら、 「滅びるしかない貴族が、バルバロイの里にこの術師ありと知られたマシラを顎でこき使うとはな」 「それは仕方がない。向こうは雇い主。われらは仕事を果たすだけじゃ」  まだ熱っぽい眼で馬車を見送りながら言うカロリーヌに、マシラはもっと淫猥な笑いを浮かべ、 「惚れたか。あの男に?」  と訊いた。 「何を——」 「隠さんでもよい。あいつは本物。おぬしは偽物[#「偽物」に傍点]。魅かれる心根がわからんではないのだ」 「お黙り」  カロリーヌは歯を剥いた。おお、その唇の間から洩れるのは——鋭い犬歯ではないか。  この娘——まさか。 「そこでだ。ひとつ提案がある」  炎のような瞳で自分を見つめる美女へ、マシラは恐れ気もなく笑いかけた。 「なによ?」 「わしたちは長老に逆らった。もはや、バルバロイの里の民としての規範を捨ててもよいのではないかな?」  意外な申し出に、食ってかかろうとしたのも一瞬、カロリーヌは動揺の相を浮かべた。 「ほれ、おぬしもそう思っていただろうが。里の掟に従えば、あの男は確かにわしらの雇い主。逆らうことも刃向かいもならん。淫心を催すなどもっての他だ。だが——わしたちが掟を無視するとしたら」  探るような眼つきで言うマシラの声に、カロリーヌの眼は爛々と輝きだした。胸中の葛藤に早早と決着をつけた変節漢の眼であった。 「そうともよ。おぬしほどの美女にあやつが眼もくれぬのは、相思相愛の小娘がおるからだ。正直に言って、わしはあの娘が気に入った。わしのものにしたい。——となれば、わしたちの利害は一致するのではないかな?」 「………」 「昼の間、奴は眠っておる。恐らくはあの娘もそうじゃろう。その間に、わしが娘を連れて逃げてしまえば、奴は昼間はおまえしか頼るものがいなくなる。なに、たかが人間の小娘。貴族ともあろうものが本気で胸襟を開くものかよ。すでに心変わりが始まっておるわい。探しになどいくものか。いざとなったら、わしのものになった証を見せれば、ふふ、百年の恋も一度に醒めること請け合いじゃ」 「それもそうね」  カロリーヌの白い顔に炎がグロテスクな陰影をつけた。 「でも、わたしがあの方の身も心も奪うには、あの方を追いつめるハンターどもをひとり残らず始末しなくては。さもなければ、あの方と一緒になっても、永久に枕を高くしては眠れない。もし、おまえの提案にわたしが協力するとしたら、彼らを抹殺するまでは、どちらにも手を出さず任務を果たすこと——いかが?」 「よかろう」  うなずくマシラへ、 「ベンゲはどうしたの? 生きていて?」  とカロリーヌは訊いた。 「はて、わからん。影の術を使ったまでは確かじゃが……奴も仲間に入れる気か?」 「もちろんよ。夜が明けたら、追いかけてくる奴らを迎え討ちにいくついでに、彼も探してくるわ」  二人の凶人が裏切りの計画に額を寄せているとき、Dはどこにいたか。  彼は街道を走っていた。  ベンゲと遭遇した地点から一直線に霧の中を。  左右には朧に森の影が見える。  前方から、風が何かを運んできた。  馬車の軋みであった。距離は二キロくらいか。静寂のみの夜とはいえ、Dの耳はこの遠方から物音を聞き取れるのか。  地を打つ馬の足が勢いを増した。  霧が壁となって立ち塞がり、渦を巻いて去った。  程なく、前方に黒い馬車が見えてきた。  護衛の姿はない。  Dは突き進んだ。護衛がいてもそうであったろう。  馬車の天井の向こうに、御者の頭だけが見えた。鞭をふるっている。  Dの右手が背中へ伸びた。  距離は縮まりつつある。  接近に気づいたか、鞭が激しく躍った。  隔たりはわずかに開き、ぐんぐんと延びていった。尋常の速度ではあり得ない。どのような名馬、名騎手といえど、追尾は不可能であろうと思われた。  馬車が方向を転じた。ボルトも吹っ飛びそうな擦過音を残して、右手の森へ入る。差はすでに八百メートル。さらに開いていく。  Dの踵が激しく馬の脇腹を打った。  徐々に徐々に、その眼が燐光を放ち始める。霧をちぎって、差は縮まっていった。  Dは馬車の横についた。  軽々と鞍の上に立ち、馬車の天井めがけて跳んだ。  スピードやタイミングを測ったと思えないのに、すべての動きがスローモーションとでも化したかのように、Dは馬車の天井に立っていた。  身を屈め、御者台へと進む。  その顔を不審げな波が渡った。  御者は彼の方を見ようともしない。  機械的に鞭を振るばかりだ。  しなった鞭をDの手が掴んだ。  それがひったくられても、御者は鞭を振り下ろした。  Dの右手が御者の頭髪にかかる。ぐいと引いた途端、凄まじい衝撃がDを空中へ打ち上げた。  なんと、彼の手の中で、頭髪は馬車や馬もろとも一枚の黒布と変じて地に墜ち、その走行エネルギーの慣性をもろに受けて、Dのみが空中へはじきとばされたのである。  もろに大地へ叩きつけられる寸前、コートの裾が巨大な羽根のように広がり、Dは軽やかに一回転して足から着地した。  右手に握った黒布を見つめる。それはたっぷりと地に垂れ、二メートルも延びていた。広げれば、小さな部屋に敷きつめるくらいはある。馬車と御者、それに六頭分の馬をつくるには、それくらいの大きさが必要なのだろう。  布を投げ捨て、このとき、Dは空中に顔を向けた。  どこからともなく、しまったという声と舌打ちが聞こえたのである。  ベンゲの声であった。  Dは無言で空中を仰いだ。  東の方、|山脈《やまなみ》の向こうが、水のように仄光り始めている。  恐らく、幻の馬車でDを別の方角へ導き、マイエルリンクを逃がす時間を稼ぐつもりだったのであろう。  成果は距離にして約一キロ。Dが全力疾走に移れば走破に二分とかかるまい。  声の行方を探すでもなく、Dは無言で馬に跨り、走りだした。  西の方——陽の没する方角へ向かって。  数十分前から、男はその荒れ果てた店内の真ん中で椅子にかけ、じっと眼を閉じていた。黒ずくめの、鶴みたいにやせた男であった。  額ばかりか恐らく全身に滲んだ汗は、腰から洩れる血の筋のせいばかりではなく、長時間にわたる激烈な精神集中のためであろうと思われた。  埃と塵にまみれた酒場らしい店内が、やや青みを帯びてきた頃、男は全身を震わせ、眼を剥いた。 「しまった」という叫びと舌打ちが口から洩れた。  全身の緊張を抜き、男はがっくりと椅子にもたれ込んだ。 「甘く見すぎた——化け物め。影の馬車に追いつくとは……。失敗したと、一刻も早く、マシラたちに知らせねばならんが……」  大儀そうに立ち上がり、埃を踏み踏みベンゲは店の外へ出た。  風だけが渡る通りの両側に荒れ果てた家が並んでいる。彼の出て来た酒場を始め、ホテル、雑貨屋、靴直し……どの店の窓も破れたガラスが黒々と口を開け、看板とドアが空しく揺れている。何らかの理由で人々が見捨てた町——ゴースト・タウンであった。  Dと一戦を交えた場所から二キロと離れていないこの町で、ベンゲは傷の手当てと影馬車の操作に全力を尽くしていたのである。通りの真ん中へくると、ベンゲは黒い長衣の懐から細長い棒を取り出し、先端部のリングを引いて、頭上へかざした。  オレンジ色の光球が噴出し、長い尾を引きつつ昇ると、じき見えなくなった。  少し間を置いて、まばゆい光の円環が上空に煌めき、数秒間輝きを維持して消えた。 「これで気づいてくれればいいが……」  不安げにつぶやき、酒場の柵につないである馬の方へ行きかけたとき、町の入口にあたる通りの端から、馬の蹄と自動車のエンジン音らしきものが聞こえてきた。  馬を隠す余裕もなく、ベンゲは通りの反対側、サイボーグ馬の修理工場らしき建物の陰に跳んだ。  数秒と待たず、通りの向こうから見覚えのあるバスの車体が姿を現した。  無反射ガラスを使っているのか、フロント・ガラスの内側は見えない。  酒場の手前で車輪は停まり、ドアが開くと、二人の男が降り立った。  昨日の昼前、岩山の道でからかった連中である。  マイエルリンクを追うハンターだ。  ベンゲの全身に殺気が膨れ上がった。  道にはすでに建物の影が墜ちている。  男たちの影との間には、大地が横たわっていた。 「来い。もっと、こっちへ来い」  どちらか片方の影の先端さえ、彼が身をひたしている建物の影のどこかに接触すれば、彼は一瞬のうちに、男の影に忍び入れるのだ。透明な、逃れられぬ死神と化して。  弓と矢を手にした岩のようなイメージの巨漢が近づいてきた。その影が建物の屋根の先と触れ合った刹那。ベンゲの姿は消えた。  もうひとりの若い方が、通りの反対側に眼をやり、巨漢が方角を変えて、影が背に回ったとき——  その背後からひょいと浮き上がった黒衣の影の首筋を、銀色の羽毛みたいなものが包み込んだ。  ぐええとのけぞり、すぐ前へのめった身体を、跳び退きざま放った巨漢の矢よりも早く、白い流れが薙いで通った。  黒血を四方へ振り撒きつつ、ベンゲの身体は腰のやや上で真っぷたつに両断され、どっと地上へ崩折れていた。 「こいつか、レイラ?」  ぼんのくぼで煌めく羽毛——短針銃の針を見ながら、ボルゴフがバスの方に向かって訊いた。 「ええ。仇は取ったわ」  運転席の横窓が開き、短針銃を構えたレイラが顔を出した。  自分を襲った相手に遭遇したときのことを考え、最初から窓を細めに開けて、兄たちをガードしていたのである。  ベンゲとて、レイラのことを忘れていたわけではあるまいが、一度嬲った娘に対する蔑視と自分の術に対する絶大な自信が、墓穴を掘ることになった。 「間違いねえ——グローヴの言ってた三人のひとりだ。こんなところで何してやがった?」  こう言って、カイルが死体に唾を吐きかけた。 「全く、落ち着いて眠れやしねえな」  とボルゴフもつぶやき、 「ま、何はともあれ、ひとり|殺《ばら》したんだ。馬がつないであるところから見て、こいつきりだろうが、念のため、周りを調べてみな。安全とわかりゃ、ひと休みしてから出かけるぜ」 「でも、兄さん。そんなにゆっくりしていていいの? 昼間はできるだけ距離をつめなくちゃ」  窓からレイラが声をかけたが、ボルゴフは手を振って、 「奴にはもう、昼間でも平気な御者が二人もついたんだ。それに、クレイボーン・ステイツって行く先も聞いてある。あそこなら先回りできるルートもいくつか知ってるし、慌てるこたあねえ。むしろ、Dの奴に先に行かせ、貴族どもと共倒れになってほしいみてえなもんだ。たまには屋根の下で眠りたいと、この町へきて正解だったぞ」  Dの名を聞いたとき、レイラの顔に走った感情の色を、むろん長兄は知らぬ。 「だけどよう、兄貴」  とカイルが円月刀の血糊を指で拭き取りながら口をはさんだ。 「クレイボーン・ステイツといやあ、昔の宇宙空港だぜ。がらくたロケットがぞろぞろ並んでるだけのところだ。奴ら、そんなとこで一体、何を——まさか、外惑星へ行こうとでもいうんじゃなかろうな。新婚旅行によ」  カイルの哄笑を聞きながら、レイラは窓を閉めた。  小鳥たちの鳴き声が森の左右から道を埋めている。  春の日射しの中を、Dは疾走をつづけていた。  影馬車を追尾したときと比べて、速度はやや落ちているが、これはやむを得まい。Dの手綱さばきは、サイボーグ馬の能力を遥かに上回る疾走を強制したのである。すでに膝関節やメタボライザーには超負荷の影響が現れている。慣らし走行でも、あと半日保つかどうか。  馬を替えるには近隣の村や移動販売車を待つしかないが、それは望み薄だった。  時刻は809|M《モーニング》。  昼も走行可能となったマイエルリンクの馬車に追いつけるかどうか。  見込みは、はなはだ悲観的だった。  それでも行かねばならなかった。  狩人は獲物を追う|宿命《さだめ》なのであった。  敵はどうでるか?  Dとマーカス一派の追撃は心得ているはずだ。  ただ逃げるだけのはずがない。必ず迎え討ってくる。  いつ、どんな手で?  追う立場は、どちらも移動し得る場合、精神的な部分を除けば必ずしも有利とは限らない。待ち伏せに遭えば、受けにまわってしまう。  逆襲のために牙を剥く獲物ほど、手強いものはない。  Dの胸を、若き貴族の相貌がかすめた。  人間に何もしないといった言葉に嘘はあるまい。  馬車の中にいる娘の顔と眼差しが、Dには想像できそうだった。  前方の光景が突如、変じた。  緑の連なりが消え失せ、荒漠たる平原が現れたのである。  大地のあちこちは溶け、ガラス状を呈している上、眼を奪う巨大な機械や自動車が地面から突き出している。そのどれもが赤錆び、溶解し、無惨な屍を累々とさらしている。それは地の果てまでつづくのではないかと思われるほど厖大で、機械のものとは思えぬほど鬼気迫る凄惨な雰囲気であった。  夜ともなれば、妄執と化したマシンの怨みの声が|啾々《しゅうしゅう》と木魂するのではなかろうか。  かつて、貴族も知らぬうちに生命を得た機械と機械とが、憎悪の果てに戦火を開いた古戦場のひとつであった。  今でもそのうちのいくつかは作動をやめず、青白い微弱な電流の這いまわる身体でもって、夜な夜な敵を求めてさまようという。  そろそろだろう。  Dには予感があった。  明け方、後方の暁空にハンターのものと思しい照明弾の火花を見た。  任務失敗とDの追撃を告げるベンゲのものだろう。  当然、残る二人のガードは目撃し、対策を立てるだろう。  逃げの一手か。  二人、ないし片方が迎え討つか。  もうひと組。マーカス兄妹も気づいたにちがいない。  この辺は彼らの方が数倍詳しい。誰も知らぬ間道を抜けて先回りする恐れは十分にある。生命の歌に満ちた昼の世界で、その足音を聞くことはDにも不可能だ。  先を越されるか。  それとも、彼らが待ち伏せの餌食となるか。  Dの顔がわずかに翳ったようだった。  末娘のことを思い出したのかもしれなかった。  ハンターとしてしか生きられないと言った、大きな丸い瞳の娘のことを。  ひっつめ髪を垂らせば二歳は若く見えるだろう。  頬と唇に紅をつければ、平凡な町の娘で通るだろう。  熱にうなされながら、母の名を呼ぶこともなくなる。  しかし——  Dの表情から人間の色が喪失した。  遥か前方に、巨大な円柱が横たわっているのが見えたのである。  幅五メートルもある街道を横一文字に断つそれは、巨大な、赤錆びた上腕であった。  Dが古戦場へ侵入する少し前、広大な土地のほぼ中央にあたる街道のそばで、吹き抜ける朝風に髪をとかしている女があった。  着ているドレスは|蒼《あお》空よりなお蒼く、唇から洩れる歌声は宝石のように美しい。  その毒々しい赤い唇さえなければ。  しかし、女の寄りかかった発電器と思しい円筒には、黒い影がくっきりと落ちている。夜の魔性は影を持たぬはずだ。  いつからここにいるのか、女は金糸のような髪を弄ぶことにふけっているように見えたが、ふと、顔を上げた。  眼を向けたのは、Dの鉄蹄が轟くはずの方角であった。 「来たわね」  と女——カロリーヌは笑い、すぐに薔薇みたいな美貌を緊張させた。 「馬の足音が人間とちがう。……D。あの、恐るべき男……」  バルバロイの里でのDの剣技は、今でもカロリーヌの眼に灼きついている。  しかし、次の瞬間、この女のどこにそれほどの闘志が潜んでいるのかと思われるほどの気迫が青い眼の中に燃え、笑いが赤い唇を歪ませた。 「ひと休みと待ち伏せを兼ねて、待っていた甲斐があった。……ここをお前の墓場としてくれる……」  戦闘開始をつぶやきに託し、カロリーヌは周囲の機械群を見回すと、ひとりうなずき、その中のひとつに近寄った。表面は赤錆が浮いていた。何本もの|管《チューブ》が入り乱れている。カロリーヌは眼の前のその一本に手をあて、さも愛しげに頬ずりしていたが、じき、妙に怖い表情になった。  口が開いた。唇と同じ血色の口腔であった。二本の犬歯が剥き出しになり、錆だらけの管に当てられると、先端はやすやすと内側にめり込んだ。  だらだらと、二筋の線がカロリーヌのなまめかしい喉を濡らし、豊かな胸元へ流れ込んでいった。  美女の喉仏が上下し、飢えたようにそれを飲み込んだ。何度も何度も。ごくり、ごくり、と。  やがて、カロリーヌが離れると、穴から洩れ出る液体は、不思議にも停止した。  風に舞う花びらのようにカロリーヌは機械から離れた。  降り注ぐ陽光の中で、赤い舌が唇を舐めた。 「さ、いいこと……今から私が言うことをよくお聞き」  機械は動いた。  ノロノロと。五本の指で砂地をかきつつ。  一メートルずつも——  それは、全長十メートルにも達する肘からへし折られた上腕であった。  Dは馬を停めた。  腕までの距離は二十メートル。  錆びた上からも血管と筋肉の筋さえ見える精緻な彫刻のようであった。  かつて行われた機械対機械の激突は、その戦闘能力もさることながら、一種奇妙な美意識の争いでもあった。  無骨なメカは、その幾何学的整然さを競うように、極限まで単純化された平面と球の構成として表現され、人間を模したものは、超古代の優れた芸術をも凌ぐ美しさと完璧性を備えることになった。  機械にも「芸術家」が存在するのか、人型のロボットは、その毛髪ばかりか毛穴のひとつひとつまでが正確に再現されたのである。  全長十メートルにも及ぶ剣を手にしたアポロと、百メートルの長槍を構えたヘラクレスの山河を揺るがす一戦は、山の形を変え、谷を押しつぶし、川さえせき止めた超絶の破壊力によって貴族たちの外史に名高い。  Dの前に立ち塞がる一本は、その片方の腕か、それとも名もない巨人の形見だろうか。  手首の上に、青い影が躍った。  朝風が金髪をそよがせ、甘い香水の香りを運んできた。  Dだけは嗅ぎ取った。  その奥に漂う血の臭いを。 「わたしはバルバロイのカロリーヌ。これから先は行かせはせん」  虚無だけを映すDの瞳の中で、女が冷然と笑った。  その身体が大きく揺らぐ。  足元の腕がぐい! と向きを変えたのだ。  Dの方へ。  五指に力がみなぎり、土中に食い込む。突き立てたそれを支点に、腕はずい、と尺取り虫みたいに前進を開始した。  ぎくしゃくした、しかし、意外なスピードであった。  Dは動かない。  赤錆びた腕が生を受けたという超現象に度胆を抜かれてしまったのだろうか。  五メートルまで近づいた腕が、五指をがっと開いて地面へ叩きつけたとき、Dは一気に馬を駆った。  巨腕は空中に浮かんでいた。  叩きつけた指の反動で跳躍したのである。  その勢いから上昇降下の距離とスピードを読み切ったものか、豪腕が大地を震わせたのは、幅三メートルもの手のひらの下を、間一髪、Dが走り抜けたときであった。  ぐい、と指が土をえぐりつつ握りしめられた。  全力疾走に移ったDに向かい、手首だけが地面と直角に曲がった。指は握ったままだ。  前へのめったとき、初めて指が開いた。茶色の塊がもう二十メートル以上離れたDと馬めがけて飛ぶ。  ぐんぐん距離が縮まっていく。  背後の風圧を感じたか、Dは右へ手綱をさばいた。  馬がそちらへ数歩進んだ途端、塊が足元へ落ちた。  それは土そのものであった。  五本の指がえぐり取って投げた品——巨腕ならではの飛び道具だ。  衝撃波を横腹に食らい、馬が傾いた。  Dは空中に躍った。  魔鳥のごとく飛んで五メートルも離れた大地に着地する。  馬もバランスを取り戻して疾走する。  巨腕はDを狙った。凄まじいスピードで大地を揺るがしつつ追ってくる。  後方へ跳ね飛んだDの眼前を黒い指先がかすめた。  直撃する砂塵と衝撃波にも、冷たい顔は無表情のままだ。 「ほほほ、どうした、ハンター?」  腕の上で、カロリーヌが艶然と笑った。 「手も足も出ぬのか? この腕も吸血鬼の仲間なのじゃぞえ」  信じ難いことであるが、この腕はそれ自体、手首に動力装置を持ち、燃料はガソリンなのである。  まだパイプに残っていたそれをカロリーヌは吸った。  巨腕にとっての“血潮”を、“吸血鬼”が。  呪われた悪鬼に血を吸われたものは、自らも悪鬼と変ずる。  この忌わしい法則が、まさか機械の腕にもあてはまろうとは。  巨腕はいま、カロリーヌの意志のままに動く生ける屍であった。  いかなDであろうと、この猛スピードで繰り出される攻撃を、いつまでもかわし得るとは思えない。  カロリーヌの指示に従い、それは正確にDを、後方に横たわる巨大な胴の残骸へと追い立てていった。  横倒しになっても脇腹までの高さは優に十メートル。Dといえど跳躍可能な距離ではない。 「ほほほほほ。それで終わりか、ハンター。背中の刀——それは伊達か?」  背後を塞がれ、成す術もなく立ち尽くしたかに見えるDの頭上へ、手首がすっと上がった。  雪崩を打って落下する指の間を、大地から黒い光が逆しまに流れた。 「!?」  愕然と眼を剥くカロリーヌの前で、Dのコートが優雅に閃いた。 「これで互角だ」  Dは静かに言った。  言い返そうとして、カロリーヌは数歩後方——肘の方へ下がった。  眼に見えぬ鬼気の放射に気圧されたかのように。  巨腕は、地面に這いつくばった形で停止した。  ぽつりと額に汗の珠が浮いた。  たちどころに膨れ上がり、白蝋の肌を伝わって流れる。陽光がその筋を銀色に煌めかせた。  Dの両腕は自然に垂れ下がったままだ。  カロリーヌの頭の中で様々な想念が渦巻いた。  逃亡の余地はない。  この青年が女であろうと容赦しない|精神《こころ》の持ち主であることを、カロリーヌは初対面のときから悟っていた。  Dが一歩前へ進んだ。 「ま、待って」  自分の声の震えに屈辱を感じながらも、カロリーヌは必死に言った。 「私を斃しても、マシラがおるぞ。奴の術、聞きたくはないか?」  切羽詰まった頭脳が生んだ最良の策であった。  これから矛を交えるべき相手の術を知ることは、戦士にとって何にも勝る重大事だ。必ず気持ちが動く。  Dはまた一歩進んだ。 「待て、待って!」  数メートルも跳び下がりながら、カロリーヌが手を振る。  この青年には、戦いにおける損得勘定も無縁なのか。  死ぬのか、わたしは。ここで、この男の剣にかかって——  カロリーヌは近づいてくる黒衣の青年を茫然と見つめた。  奇妙な感情がその胸に湧いた。  殺されたい。  この美しい男の切先を胸に受けてみたい。  死のエクスタシーが恍惚とカロリーヌを包んだ。  Dの動きが停まった。  低い呻きを洩らし、黒衣の影は膝をついた。  何が起きたのかも知れず、カロリーヌの本能は死から生を求めて脈動した。  巨腕が半回転し、二人を宙へ降り落とした。  それでも鮮やかに着地を決め、Dは片膝をついた。  ここぞとばかりに巨腕が落ちてくる。避ける暇はなかった。  Dの右手が煙った。煙ったように見えた。  雪崩れ落ちる指と交差して銀光が閃いた。  重々しい音をたてて直径五十センチもある中指がDの背後に落ち、手首から先がのけぞる。  切り口から機械油が黒い筋を四方へ引いた。  同時に、街道をはさんでDの|対面《といめん》に降り立ったカロリーヌも右手指を押さえて青ざめた。  その付け根をうっすらと赤い朱線が取り巻いている。  Dが跳躍した。  その下にサイボーグ馬がいた。 「逃がさんぞ、ハンター!?」  カロリーヌが叫んだ。  わななく手が黒い筋を引きながら死のジャンプに移る。  Dは疾走に移っていた。  逃げるのか?  巨腕がそれを追う。  その手首から肘にかけて、炎の花が咲いた。十万度に達する核ミサイルの熱気が鋼を溶解し、忌わしい悪鬼の腕を灼け崩れる棒と化して地上へ四散させた。  空中には、五条のミサイルの発射煙が尾を引いている。  Dのやってきた道の彼方から、軽快なエンジン音が響いてきた。  平べったいボディに巨大なノーパンク・タイヤをつけた乗り物は、言うまでもなく、|戦闘《バトル》カーだ。ハンドルを握っているのはレイラであった。  影使い——ベンゲを斃した後で、レイラはどうしても敵のことが気になるからと、偵察役を買ってでたのである。  すぐ戻ると言い置いたのが、一時間になり三時間になった。  Dを求める旅であった。  奴ら[#「奴ら」に傍点]が待ち伏せしているかもしれんと兄たちは言った。共倒れになればいいと笑った。その考えが的を射ていると思えば思うほど、レイラの胸の中では、あの虚無を湛えた美青年の顔が大きく膨れ上がっていったのである。  二度生命を助けられたからだ、と思う。  だが、借りを返そうなどという考え方をレイラはしたことがない。空腹で倒れたとき、食事を与えてくれるものがいれば、彼のもつ他の食料を奪うため、平然とナイフを向ける。これがレイラの、マーカス兄妹のやり方であった。  恩返しなどという観念がわからない。  しかし、ハンドルを握って朝の空気を切り裂くレイラの胸の内は、それに一番似通ったものがあった。  |古《いにしえ》の戦場へ入り、Dを追う巨腕を見た刹那、核ミサイルの発射ボタンを押したのは、自分でも意識しない、そんな心の動きのせいであった。  指一本を失い、苦痛にのたうつ巨腕の速度では、Dの疾走に及ばなかったということはわからない。  紅蓮の炎を噴き上げ、すでに動きを停めた腕のかたわらに停まり、鋭い視線を投げる。  カロリーヌを求めたのである。  見当たらなかった。  舌打ちし、レイラはアクセルを踏んだ。  三キロほど疾走し、Dは街道をはずれた森の中へと入った。  凄まじい眠気と倦怠感が襲ってくる。  ダンピールに特有の“陽光症”であった。  吸血鬼の資質を半ば以上受け継いだ彼らは、平気で日中も闊歩し得る一方、その弊害もまた大きい。  容赦ない陽射しは当人も知らぬうちに、半ば不死身の肉体にさえ拭い難い疲労を蓄積していくのだ。  ハンターたるダンピールにとって、最も恐ろしいのは、その症状が、急激な脱力感と疲労の奔騰という形で突如、現れることだ。実力伯仲の死闘のさなか、これが発生したらどうなるか、火を見るよりも明らかであった。  間一髪で脱出したものの、これは逃走とも敗走とも呼べまい。馬に乗り移ることができただけでも、Dならではの超人的体力だ。  だが、森の奥で馬から降りたDの足取りはややもつれている。  色とりどりの植物や昆虫に覆われた地面の一角に膝をつき、Dは戦闘ベルトから抜き取ったナイフで土をえぐり始めた。  猛烈な勢いで土や苔が飛び、人ひとりが横たわれる大きさの窪みが穿たれるまで三分とかからなかった。  かすかに頭を振っただけでDは悠然と窪みに入った。  周囲の土を手で身体にかぶせてから、横になる。  古来の伝説において、吸血鬼が棺の中に故郷の土を封じて運ぶのは、最も安らかな眠りにつけるのが、その本来の墓地だというためばかりではない。  活動によって体内に蓄積された疲労を母なる大地が吸い取り、新たな不死のエネルギーを注入してくれることに、彼らは太古より気づいていたのである。  Dもそれに倣った。 「くふふ、えらいことになったの。さすがのわしも、“陽光症”がいつ起こるかだけは見当がつかん。まして、おまえのタフさは人並みはずれておるで。もうかれこれ五年になるか」  それは前の発作からだろうか。通常、最も貴族の資質を受け継いでいるダンピールで、症状突出の間隔は約半年。彼らは前回の日時を目安とし、次に発生する予定日の前後ひと月は闘争を避けて身を隠す。自らが追う獲物の逆襲を恐れるためばかりではなく、商売敵の攻撃を避けるためだ。  シェア独占を狙うハンターの中には、同業者の発作発生日を克明にメモし、次回予定日の前に居どころを確かめて、抹殺を計る卑怯者も多いのである。  Dの場合は、言うまでもなく、カロリーヌ一派の猛襲を防ぐためであろう。 「では——しばしのお休みじゃ。幸運を祈るぞ」  呑気な声が左手から上がったとき、Dの眼は閉じられていた。 [#改ページ] 第五章 旅路の果て    1  Dとカロリーヌが古戦場で死闘を繰り広げている頃、マイエルリンクの黒馬車は、そこから直線距離で六十キロほど離れたとある湖のほとりに停車していた。  空は青く澄み、岸辺の樹々は豊饒な水に潤って、葉の一枚、枝の一本から虹を放っているようだ。  遠く、白雪をとどめる青い|山脈《やまなみ》が遥かにつづき、その頂を黄金色の鳥たちがかすめていく様は、ただの風景と見ればまことに美しく平和な一景であった。  湖のほとりで馬に水をやっていたマシラの邪悪な顔には、何やら物思いにふけっているような真剣な表情がかすめていく。  もうしばらく前——カロリーヌと別れたときからこうだ。  水に映った醜悪な顔を眺めている風なのが、ついに、 「よし」  とつぶやいて手を打った。  それから身を屈め、岸辺に咲いている白い花を何本か摘んだ。  少し離れたところに停まっている馬車の方へ歩き出したとき、その顔は妙に屈託のない善人面を浮かべていた。  シェードを降ろした窓を叩くと、どこかにあるマイクロフォンが、はい[#「はい」に傍点]と言った。  哀しげな可憐な声に、思わず舌舐めずりしかかるのをやめ、好人物然とした顔と口調で、 「少しは窓を開けて、外の空気を吸ってみませんかの。空は青く水は澄み、花の香りがそこいら中に満ちてございます。マイエルリンクさまはお寝みじゃろうが、なに、このマシラがおれば、何も危ないことはございませんとも」 「………」  窓の内側にいるものはためらった。  脈ありとみたか、マシラは精いっぱいすがすがしく、 「ほうれ、この可憐な花をごらんあれ。地面いっぱいを埋め尽くしておるぞ。心配なら、シェードだけでも開けて、この色を賞味なさるがよろしい」  また沈黙があり、これは駄目かなと思いかけたとき——  すっと黒い板が上へはじけた。  夕顔のようなあどけない顔がそっと覗いたのを見て、マシラは内心に笑みを広げた。  どうやってこの娘を外へ連れ出すか。  先刻から彼が頭をひねっていたのは、これだったのである。  あれこれ考え、結局、人間の娘らしい心情につけ込むことに決めた。  いかに恋人と一緒とはいえ、また、恋人から外へ出るなと釘を刺されているとはいえ、年端もいかぬ乙女が、何日も馬車に乗りづめで、外の空気を吸いたがらぬはずがない。闇は人間の棲む場所ではないのだ。  夜明け以降、マイエルリンクに代わって手綱を取りながら、道をはずれたこんなへんぴな場所へ馬車を導いたのも、そんな手段に訴えようとする心の動きがもたらしたものだったであろう。 「ほれ、いかが?」  マシラは背中に隠し持っていた花を素早く窓ガラスに突きつけた。  娘の眼が茫洋とかすみ、白い手が伸びた。それは虚しく、窓ガラスにはじき返された。 「何をためらっておられる。ほんの少し外の空気を吸うだけではありませんか」  ここぞとばかり、マシラは語気を強めた。 「花は咲き、鳥は歌っておる、この光景を肌で味わい、あなたさまが今より元気になれば、マイエルリンクさまとて、よくやってくれたとわしに感謝なさるは必定。契約の料金にもちっと色がつくというもの。ここはひとつ、しがない用心棒を助けると思って」  娘の眉が思案に揺れた。  思い決したように瞳がかがやき、ドアの把手が回るまで、ひと|呼吸《いき》とかからなかった。  室内の闇を陽光に散じさせつつ、娘は野辺へ降りた。  美しい獲物はついに罠にかかったのである。  やさしくその手を取り、マシラは岸辺へと導いた。 「……きれい」  感嘆の声は、この可憐な娘も、やはり昼の世界の住人だと示していた。  さざ波の打ち寄せる岸辺で、娘はひざまずき、湖面に手を伸ばした。  波紋が広がり、美しい顔を覆い隠す。手首までつけた手を抜き、顔を拭おうとハンカチを探しているうちに、水面は静謐に戻った。  娘の後ろにマシラが立っていた。  彼は鼠色のコートの前をはだけていた。  そこに何を見たか、  声もなく娘は凍りついた。  ようやく振り返った肩をマシラの両腕が掴んだとき、二人の腹のあたりを、茶色の管のようなものが神速で往復した。マシラから娘へと。  娘は身悶えしたが、マシラの手は離れなかった。  可憐な肢体は苦もなく草むらに押し倒されていた。 「何をするのです——放して」 「そうはいかん」  とマシラは、顎を押す娘の手を掴んでねじり上げながら言った。 「わしは、おまえに惚れた。わしのものになれ。黙ってそうなれば痛い目には遭わさん。マイエルリンクの奴も、わしが始末をつけてやる」 「何を言うの——放して。放さないと——」 「放さなければ何をする? こんな森の中、人を呼んでも誰も来はせん。さ、二人して、深い仲になろうではないか……」  恐怖と怒りに震える唇に、欲情に燃える口が重なろうとした。  激しい銃声が巻き起こったのはそのときである。  はっと顔を上げたマシラの顎と股間で、凄まじい激痛が炸裂した。 「うぐぐ」  と呻く身体を押しのけ、少女は素早く起き上がっている。  馬車の後方で紫煙たなびくライフルを肩づけした猟師らしい姿が見えた。  人はいたのである。  少女は素早く馬車の方へ駆け寄った。  その間に猟師が割って入る。  不精髯で埋もれた顔に、ぞっとするような不気味な翳がこびりついていた。 「姐ちゃん、おめえ、何者だ?」 「え?」 「とぼけるな。この馬車、貴族の持ちもんだろうが。そいつに乗って何しようてんだ?」 「それは——」  口ごもる少女に、猟師は下品な笑いを投げ、いきなり、片手で顎を掴んだ。  猛烈な力で、少女の首の左右は男の眼にさらされていた。 「傷はなしか——とすると、おめえ、自分から貴族とくっついたな。この裏切りもの。あの野郎を片づけてから、たっぷりと引導を渡してやる。男を知ってから、あの世へ行きな」  少女の頭の中で信じ難い強風が吹いていた。  この男も敵だ。  馬車から一歩出た途端、こうも次々に不幸に見舞われるとは——。  ああ、あの方と一緒にいるのだった……。 「その手を放せ」  低いがはっきりしたマシラの声が聞こえた。  股間の衝撃が尾を引いているのか、やや前屈みの姿勢を保ったまま、にじり寄ってくる。形相が変わっていた。  怒りのあまり、無表情に近い。 「その手を放すんだ」と彼は繰り返した。 「へっ。取れるもんなら、取ってみな」  猟師は嘲笑した。 「大方、おれと同じでこの娘を見つけた渡りものらしいが、こんなところで手ごめにしようたあ悪い了見だぜ。おめえの分もおれが可愛がってやる。さっさとあの世へ行きな」  言いざま、馬車と反対の方向へ少女を突き飛ばし、大口径の火薬式ライフルへ左手を添えた。 「ま——」  て、と言いかけたマシラの丸っこい身体は、鉄板をハンマーでぶっ叩くような炸裂音とともに、心臓のど真ん中にどでかい穴を開け、二メートルも後方へ撥ね飛ばされていた。  少女の悲鳴があがり、空気は朱の霧に煙った。 「へへへ……さ、次はおめえだ。ばっちり楽しんでから、村へ連れて帰ってさらしものにしてくれるぞ」  こう言って猟師は振り向き、ただならぬ形相を浮かべていた。  少女の顔に、凄まじい恐怖の相が湧き上がったのである。  その眼の行方を追って、今度は、猟師が凍りついた。  マシラが近づいてきた。  大口径弾を食らった胸に、ぽっかりと穴を開けたままの血みどろの姿で。  光を失った眼を見るまでもなく、血の気を失った顔面はもはや死者そのものだ。歩き方も妙にぎごちない。慣れていないとでもいう風に……。  猟師が何か叫んだ。  応じるようにライフルが吠えた。  マシラの頭が西瓜のように膨張し四散した。  足取りが速まったのは、その分、軽くなったせいかもしれない。  猟師は身動きできなかった。  必殺を期したライフルの能なしぶりに、身体を動かす神経が萎え切っていた。  首のない男の手が伸び、たくましい両肩を掴んだ。 「せっかくこの身体に慣れてたのに——今度は貴様に代わってもらうぞ」  マシラのものとはまるで異なる声が腹の方から響いたと思う間もなく、その位置から茶色の管みたいなものが猟師の腹にめり込んだ。  数秒たった。  少女には悪夢としか思えぬ茫大な時間だった。 「ふふふ——移転完了じゃ」  と腹からの声が言った。  猟師の腹からの声が……  どっとばかりにくずおれる首なし死体を見る暇もなく、ここに到って我慢の糸が切れた少女は、悲鳴をあげて森の奥へと走り出していった。  その姿を眼で追ったものの、猟師は何故かすぐには歩き出さず、 「くく、逃げても無駄じゃが、なにせ、わしをほんの少し送った[#「わしをほんの少し送った」に傍点]だけなので、まだ出来上がってはくるまい。ちいと鬼ごっこでも楽しむとするか」  つぶやいて、ようやく足早に後を追い始めた。  牛缶に残った最後の一片を胃に収めると、カイルは空き缶を路上に投げた。乾いた音を立てて転がる円筒が何度目かに宙へ浮いたとき、銀色の光がそれをふたつに両断し、カイルの腰に吸い込まれた。  ゴースト・タウンの大通りである。  カイルは酒場の前に突き出た板張り歩道の端に腰をかけていた。雨で通りが濡れると歩行は困難になる。  少し離れた雑貨屋の前に停めてあるバスのドアが開き、ボルゴフが顔を出した。  緊張気味だ。 「どうしたい、兄貴?」  カイルは立ち上がった。  ボルゴフは難しい顔で、 「グローヴが発作を起こした」  と言って、天空を仰いだ。 「しかも、今度のはきつい。心臓がもたんかもしれん」 「やばいぜ。奴にゃ、何かんとき、もうひと働きしてもらわなくちゃよ。へっ、レイラとおれとの絡みが激しすぎたかな」 「馬鹿野郎!」  とボルゴフはもの凄い表情で一喝したが、すぐに腕を組み、沈痛な面持ちで、 「——かもしれねえ。無理にもうひとり[#「もうひとり」に傍点]のあいつを喚び出すと、身体によくねえのはわかってたんだが……」  とつぶやいた。 「とにかく、行こうや。レイラの奴を待ってちゃ、日が暮れちまうぜ。貴族の足がこっちの想像より速かったら事だ」 「うむ」  と言ったものの、ボルゴフの顔は昏い。  狙った獲物ばかりか、競争相手のハンターたちまで始末するという残虐ぶり故に不敗だった彼ら兄妹が、すでに次男ノルトを失い、レイラは帰還せず、寝たきりのグローベックさえ、瀕死の状態にある。  レイラの未帰還は必ずしも斃されたとは限らないが、彼らの前にいる敵の力を考えれば、決して安心してはいられない。  まして、この妹に関し、ボルゴフにはひとつの危惧があった。  あいつは、Dに惚れたのではないか。  貴族との初戦で負傷した妹を拾い上げたとき、身体に食い込んだ破片はすべて抜き取られ、レイラは安らかな寝息をたてていた。  誰が治療したのかと訊いても覚えがないという。  貴族ではあるまい。  となれば、Dだ。現にレイラの周囲には、彼女の他に二組の相争った形跡が残っている。  それをレイラは口にしないのである。この妹の気性からすれば、考えられないことではなかった。Dもまた斃すべき敵だ。それに生命を救われるとは、屈辱以外の何物でもあるまい。  ところが、当のレイラがちっとも口惜しそうではないときていた。  それどころか、作戦会議の最中でも、妙に疲れたような、辛そうな表情を見せる。そんなものに気をつかうほどヤワな兄弟ではないが、肉体的な疲労とは大分異なるようだ。  あれこれ考えてみると、この症状がでるのは、Dの一件を相談している場合に限ることがわかった。  はてな、と思ったのはそのときである。  しかし、自らが凄烈無比な吸血鬼ハンターだけに、ボルゴフの胸には、もうひとつ吹っ切れないところがあった。  果たして、本当にDがレイラを救ったかという点である。あの時点で、Dは自分たちが敵たることをはっきりと自覚していたはずだ。様々な噂を総合すると、武器を持つ敵であれば、女だからといって容赦するような甘い男ではない。その実力、戦歴、斃した相手の顔触れは、話半分としても、ボルゴフの首筋に冷たいものを這わせるのに十分だった。  そいつがレイラを助けた?  ボルゴフには信じ難いことであった。  だからこそ、今朝、偵察に出ると言った妹を止めもしなかったのである。  様々に乱れる想念をボルゴフは吹っ切った。 「——行くぞ。レイラが無事だとしたら、照明弾でも何でも連絡をよこすだろう」  二人はバスに戻った。  カイルは運転席につき、ボルゴフは寝室へ入った。  グローベックのベッドからは、呼吸音ひとつきこえてこない。  いや、ミイラみたいにひからび、身動きひとつしない胸に耳をあてても、心臓の鼓動もきこえまい。  このとき、こちら側[#「こちら側」に傍点]のグローベックは確かに死んでいるのである。  獰猛極まりない顔に、人間らしい痛ましげな表情を浮かべてボルゴフが四男の屍を見下ろしたとき、バスは小さく揺れて動き始めた。    2  二人の女が森の中を歩いていた。  片方——金髪にブルーのドレスを着た妖艶な美女は、目を一点に据えたまま、ひたすら森の奥をめざして進む。  もう一方——シャツにスラックスといった軽快な服装の方は、余程、森の散策に向いている風にも見えるのに、しばしば立ち止まっては地面を調べ、木の折れ具合を眺め、少しして、また歩き出す。  四方へ眼を配ってはいるものの、決して自分が迷っている風ではない。  ふたつの瞳は、同じものを求めているのだった。  いまや全く無防備と化したはずの若き吸血鬼ハンターを。  レイラは立ち止まり、額の汗を拭った。  カロリーヌの操る巨腕を灼き尽くした後、ただちにDの後を追った。はっきりした理由はなかったが、あの逃走ぶりからして、何か異変が生じたのは明らかであった。Dともあろうものが、いかに妖人とはいえ、女に斃されるはずがない。  考えられるのはただひとつ——“陽光症”だ。  ならば母なる大地を求めて森へ走るだろう。蹄の跡を尾けて追いすがるのは容易だった。森への侵入口も見つけた。難儀はそれからだった。|戦闘《バトル》カーは入れない。  未練なく、レイラは愛車を離れた。  カロリーヌがどうでるかわからないが、兄たちとDを比べ、その実力の度合い、抹殺する際の苦労からみて、何はさておきDの殺害を企てる可能性は十分にあった。  まして、奇妙な力を持つ女のことだ。すでに先を越しているかもしれない。 “陽光症”で地に埋もれたダンピールを斃すのは、活動中の人間離れした能力が夢ではないかと思われるほどたやすいのだ。  短槍を手に、短針銃を腰のベルトに突っ込んだだけで、レイラは森の中へ入った。  蹄の跡は絶えていた。  密集する苔がたちまちのうちに覆い隠してしまうのである。  残されたのは、ハンターとして培ってきた勘のみであった。それだとて、バルバロイの女には及ぶかどうか。愛車を捨てたレイラは、カロリーヌに対して、平凡な人間の娘にすぎなかった。  わずかな苔の乱れを感じて右前方へ数メートル進むと、不意に開けた一角へ出た。  手近の木の枝につながれた馬と、その足元に半ば土に埋もれて横たわるDの姿が見えた。  歓喜の叫びが溢れるのを呑み込み、苔を乱して駆け寄る。  異常はなかった。  遠目に見ても身の毛がよだつほどの美貌はあくまで怜悧に、あくまで厳しく、物思いにふけるがごとく瞼を閉じている。  レイラの肩が落ちた。  熱いものが瞼を割り、レイラはひどく驚いた。  泣いた記憶は遠い。血まみれの、今は顔もさだかではない年老いた女のそばで涙を拭っていたような気がする。  あれは誰だったのだろうか。  強く涙を拭い、レイラはそっと土に覆われたDの身体の上に身をもたせかけた。  冷たかった。  土の冷気ではない。Dの体温だ。貴族との戦いで負傷した身を、後からやってきたカイルに発見されたとき、誰かに温められなければ死んでいたと言われた。保温装置などは無論ない。  Dが温めてくれたのだ。  何故だかはわからない。  他人への想いを知らぬ娘ではなかった。何度か求婚されたこともある。その誰もが、素姓を知ると去っていった。ただひとりを残して。彼はレイラが捨てた。  その夜、レイラは兄たちに犯されたのである。 「おまえを他所へやりゃしねえ」  とボルゴフは言った。前から抱きたかったとノルトが囁いた。カイルは無言で行為に没頭していた。三人が離れてすぐ、ミイラのごときグローベックの身体がのしかかってきたとき、レイラのこころから何かがとび去った。  それから以後は、前より冷静に他人を殺すことができるようになった。  その何かが、今、戻ってきていた。 「あなたは私を助けてくれた」  動かぬ麗人に、レイラは囁くように言った。 「今度は私が守ってあげる。生命を懸けて守ってあげる」  左手奥で、異妖の気が動いた。  短針銃の安全装置を確かめ、短槍を手に、レイラは闘志をみなぎらせて立ち上がった。 「彼」は緑一色の丘陵に横たわっていた。  滅多に「外」へ出ることのない「彼」にとって、短いが至福のひとときであった。  胸の中は歓びで湧き返っていた。  一陣の風、射し恵む陽光、むせ返る若草の匂い、渺茫と広がる、青い山脈——そのすべてが、「彼」に生の歓喜を実感させるのだ。  ぼくは今、生きている!  背後の森の方で足音が湧いた。  振り向くと、ひとりの娘が走り寄ってくる。面貌の恐怖が「彼」を不興にした。せっかくのひとときを。 「助けて。お願い、助けて下さい!」  叫んで少女は彼の背後にまわった。 「彼」は困惑した。 「彼」の得意技は、もっぱら、その逆だったからである。  娘の言葉の理由はすぐにわかった。  森の奥から、大型ライフルを構えた猟師らしい男が現れたのである。  男はせわしなく周囲を見回し、すぐ「彼」と娘を見つけるや、大股で歩み寄ってきた。 「彼」の背後で、恐怖の叫びが洩れた。  初めて「彼」は、かつてない心の動きを感じた。  一メートルほど手前で男は立ち止まった。  ライフルの銃口がぐいとこちらを向く。 「彼」は少々驚いた。  男の全身には敵意と自信が満ちていた。  初めて見る顔なのに、向こうは「彼」を知っているようだ。 「何ですか?」  と訊いてみたが、相手には聞こえなかったらしく、顔の筋肉ひとすじ動かさない。  いつものことだ。「彼」はあっさりコミュニケーションを放棄した。 「娘をよこしな」  と男が命じた。  冷たい声であった。命令に従っても何をされるか、馬鹿でも想像がつきそうだ。 「いやならいいんだ。どうせ、おまえは生かしてはおけない。——おかしなところで会ったな」 「彼」は首を傾げた。  どうしても想い出せない相手だった。  謎解きは相手がしてくれた。 「——と言っても、この格好じゃわかるまいな。くく……バルバロイの里へ、おまえが乗り込んで来たとき、馬車のすぐそばにいた三人組のひとりよ」  言われても「彼」のとまどいは解けなかった。確かにその三人なら記憶にある。しかし、中年男と若者と華麗な美女と——どれひとりとっても、眼前の猟師とは異なるのだ。 「そうか。まだ、わしの素顔を見せていなかったな。おまえが見た顔も、今のこやつも、仮の宿にすぎん。本物のわしはな——ほら、こんな顔じゃ」  言うなり、猟師は片手でシャツをたくし上げた。 「彼」の口もぽかんと開いた。  猟師の腹には何もなかった。  娘が息を呑んだのが、変化の合図だった。  異様にせりだした腹の中央部に、皺とも何ともつかぬくびれがいくつも走ったと見る間に、何やら人間の顔みたいなものが湧き上がってきたのである。  小さな鼻、紫色の肉片みたいな唇——ぱっちりと眼が開いた。歪んだ唇の間からこぼれる黄色い歯の先は、牙のように尖っていた。  これはできもの[#「できもの」に傍点]だ。  人の顔をした、生命をもったできもの[#「できもの」に傍点]だ。  猟師の肉体は彼を移動させるだけの器にすぎないのだ。 「驚いたか、若造。これが本当のわしだ。他人の身体に乗り移って五百年。やわかおまえの術になどひけを取らぬぞ」  ようやく「彼」にも事態が呑み込めた。  じわり、と胸の中で敵愾心が湧き上がってくる。それを看て取ったか—— 「ほっほっほ、よいのか。おまえが稲妻をとばせば、わしも銃を射つ。後ろの女も死ぬが、よいか?」  一瞬、彼は当惑した。腹のできものは言った。 「それに、その女、もはや普通の身体にあらずだ。見てみるがいい、腹の中を」  奇怪な言葉が彼の注意を背後に向けた。  凄まじい銃声より先に、衝撃と熱が「彼」の胸を叩いた。  彼方へ跳ねとびながら、「彼」は青空を見た。  敵は少女への狙いははずしたようだった。最初から射つ気はなかったのだろう。  血煙をあげてのけぞった若者の方を見ようともせず、猟師——いや、怪異な人面|疽《そ》は娘に笑いかけた。 「さあ、おいで。マイエルリンクの奴が出かけてくると厄介だ。あいつの棺だけは、わしにも手が出なんだ。闇が墜ちるまでに、できるだけ遠くへ、逃げておきたいのでな」  娘は安堵の表情を浮かべた。この期に及んで、マイエルリンクの身を案じているのだと知り、人面疽——マシラの表情に怒気が昇った。 「ええい、面倒だ」  叫んで一歩踏み出したとき、腹の底、いや、腹の中から、あっという驚愕の声が流れた。  青年は起き上がっていた。  血飛沫も弾痕も留めぬ健康な姿で。 「き、貴様……」  人面疽が呻いた。  彼もまた青年の正体を知ったのだ。  世界は白く染まった。  どこからともなく出現した光の帯は、あっという間に、猟師の腹を真っ向から貫いた。  炎が立ち昇り、脂肪の溶ける匂いが空気を満たして、猟師はどっと草むらに倒れた。  あまりにも異妖な闘いに耐えに耐えた神経の糸がちぎれたか、糸の切れた人形みたいに倒れかかる娘を、「彼」はやさしく支えた。  軽々と娘を抱きかかえた影が丘を降って見えなくなる頃、なおも炎を噴き上げる死体の足首のあたりで、低い声がした。 「くわばら、くわばら。さすが、マーカス兄妹の片割れじゃ。しかし、この目で術は見たが、あいつ自身は一体、何者だ?」  レイラは初めて、間近でその女を見た。  黄金の髪も水のような肌も美しいとは思わない。自分の方がDに合う。  だが、妖艶な美貌の裏に、想像を絶する力をもつ女だということは間違いない。  レイラ自身も見くびってはいなかった。  一瞬で手槍の通じる相手ではないと知り、地面に突き刺すや、短針銃を抜いた。  カロリーヌは唇をすぼめて笑った。 「ほほほ、そんな子供騙しで、バルバロイの里の女が倒せると思うか。よいか、貴族ですら、あの里へは容易に入り込めぬのだぞ」  答える代わりに、レイラは短針銃の引き金を引いた。  眼に見えぬ針は音もなく女の腹を貫いた。 「おお!」  とカロリーヌは叫び、すぐ、にっと笑った。 「針を射ち出す銃か——娘、心臓を狙うべきであったな」  それが何を意味するのかも知らず、愕然と立ち竦むレイラの右手を、頭上から落ちてきた何かが打った。  短針銃が飛んだ。  取り戻そうと苔の上へ伸ばした手と銃との間に何かが突き刺さり、行く手を封じた。  それが太い木の枝と知って跳び下がるレイラの肩を別の手が捉えた。  おびただしい小枝をまとわりつかせた別の大枝が。  ばきばきと音をたてて小枝がへし折れ、そこから指のように折れ曲がってレイラの四肢をからめ取った。 「おまえに先回りされたと知って、この辺の木の樹液をすべて吸っておいた。樹液は木の生き血。これで、わたしは枝という枝——数千本の手足を持ったことになる」 「お、おまえは、おまえはまさか——」  ある恐るべき予感に苛まれつつ、レイラは身悶えしたが、木の枝の呪縛は解けなかった。 「ほほ、残念ながら、私は貴族ではない」  カロリーヌの笑みは勝者のものであった。 「だが、その能力だけはいささか受け継いでおるぞ。私の母は辺境第七地区を担当するさる貴族の乳母だったのじゃ」  ああ、まさか、この美女がDと同じダンピールだったとは。  その人間離れした美貌。食事をとらぬ不思議。マイエルリンクに寄せる熱い視線——すべてはこの女の正体を指し示していたのではないか。  昼日なかの平然たる歩行もそれでうなずける。  しかし、やはりバルバロイの里人である証拠に、彼女の歯を立てられたものは、機械の腕のごとき無機物でも、レイラを金縛りにした植物のような有機生命体でも、貴族に吸血された人間のごとくその意に従うのだ。ほとんどのダンピールが吸血はするものの、増殖性は持たぬのに比べ、これは何という恐るべき能力か、術か。  Dとレイラを見比べ、カロリーヌはにやりと邪悪な笑みを洩らした。 「先刻から見ておったところでは、おまえ、このダンピールに惚れたな。面白い。真っ先に料理するつもりだったが気が変わった。そこで、愛しい男が心臓を串刺しにされるところをよく見ておるがいい。その後で、おまえも同じ目に遭わせてくれる」 「やめて。殺すなら、わたしを——」 「ほほ。健気なことじゃ。貴族を殺しては生計をたてる人間の屑も、惚れた相手には見境がつかなくなるらしいの。ま、待っておれ、おまえもじきに後を追う——」  ぴしりと言い渡したカロリーヌの背を、うそ寒い風が撫でた。  Dと等しい能力を持ったダンピールは思わず振り向いた。  Dの身体には何の変化もない。この美貌は何を夢見ているのだろうか。ダンピールならぬ平凡な自らの姿か。過ぎ去った日々か。いや、いや、血と暗黒に彩られた果てしなき死闘の未来にちがいない。 「気のせいか」  つぶやいて、カロリーヌは右手をあげた。かたわらの大木の枝が一本、根元からしなって、鋭い先端をカロリーヌの胸元に向けた。  白い手でそれを掴み、カロリーヌは先端から一メートルほどのところで枝をへし折った。  ゆっくりと眠れるDのかたわらへ近づき、窪みの両端を跨ぐように足をかけた。  両手で支えた枝——即製の大杭をぐいと頭上へ振りかぶった刹那、 「やめて!」  レイラが絶叫したのと、振り下ろすのとほとんど同時、そして、カロリーヌが「マシラ!?」と叫んだのは次の瞬間であった。  杭は空中で受け止められていた。  Dの左手で。左の手のひらで。  カロリーヌの叫びもむべなるかな、鋭い先端を食い止めたものは、手のひらに出現した小さな口であった。  文字通り、杭は食い止められていたのである。  口の上で、悪戯っぽい眼がふたつ、にんまりと笑った。  そのくせ、カロリーヌの怪力をもってしてもびくともしない顎の強さ。  驚きと恐怖に美しい顔を歪め、女ダンピールは跳び退いていた。 「おかしな名前で呼ばんでもらおう」  ぺっと吐気だけで、一メートルもの杭を窪みの外へ吐き出し、手のひらの顔は言った。 「マシラとは、おぬしの相棒のひとり。奴もわしと同類なのか?」  答えず、カロリーヌは右手を振った。  森が揺れた。  数本の巨木がしなり、その枝を眠れるダンピールめがけて垂直に振り下ろした。  左手が迎え討った。  吐き捨てた大枝を掴むや、カロリーヌめがけて投擲したのである。  かわす暇もないスピードであった。  それでもとっさに身だけはひねったのか、大枝がめり込んだのは、カロリーヌの腹部であった。  絶叫をあげてのけぞった瞬間、枝の動きはぴたりと停止した。  レイラの呪縛も解ける。  短槍へ走る暇はないと見て、レイラはカロリーヌの元へ走った。突き刺さった枝をひっ掴み、渾身の力で押す。  カロリーヌの口から血泡が噴き上がった。 「おのれ、おのれえ」  断末魔の痙攣に全身をわななかせつつ、白い手がレイラの両肩を掴んだ。  血まみれの口が首筋に吸いついてもレイラは力を緩めなかった。  脳裡を占めているのは、Dを救いたい、ただそれだけであった。  すっと口が離れた。  猛烈な脱力感が、手から大枝が奪われるままにした。  数歩後ずさりし、カロリーヌはまた呻いた。大枝は腹に刺さったまま、下半身は溢れ出る血で真紅に染まっている。  凄惨無比な姿であった。 「娘、——また会うぞ。次は、わたしの奴隷としてな」  言葉に混じって血泡を噴きつつ、カロリーヌは身を翻した。  レイラは地面に膝をついていた。  血を吸われた。ダンピールに。  不思議と恐怖はなかった。  疲労と満足感だけがレイラを満たしていた。  彼女は約束を守ったのだ。  自分との約束を。  レイラはそれでも身を起こし、眠れるDに近づいた。  じっと美しい顔を見下ろし、さよなら、と言った。 「あなたとキスがしたかったけれど、もうできないわね。ハンターが吸血鬼のなり損ないに唇を奪われたら笑い話だわ。さよなら。わたしのこと、できたらときどき想い出してちょうだい」  辛うじて短針銃と短槍を手に取り、レイラは歩き出した。  よろめく姿はすぐ、森に呑まれた。  しかし、Dはいつまで眠りつづけるのか。  生命と魂をかけて彼を守った女戦士は傷つき、マイエルリンクの愛した娘は何処へか去り、事態はなお昏迷の度合いを増しているというのに……    3  カロリーヌ対レイラの死闘を終えて、二時間ほどたった街道である。  時速四十キロほどのスピードで風を切っていたバスが、前方にあるものを認めて急停車した。 「どうした!?」  寝室で弓矢の手入れをしていたボルゴフが荒っぽい声を張り上げた。 「眼の前の道を女が横切りやがった。青いドレスに金髪——グローヴの言ってたカロリーヌって奴かもしれん。ちょっくら、様子を見てくるぜ」  言いながら、カイルは円月刀を手に立ち上がっている。 「待て、おれも行こう」  と言うボルゴフへ、 「大丈夫さ。たかが女だ。それに、二人しておびき出され、その間にグローヴでもやられちまったらことだ。相手はもうひとりいるんだぜ」 「それもそうだな。気をつけろよ」 「まかしときな」  自信たっぷりに笑ってカイルはバスを降りた。すでに正午を回っているが、陽射しは白く熱い。  円月刀を両手に女の消えた位置から森へ入りかけ、 「念のためだ」  と言いざま、円月刀を放った。  世に、これほど奇怪な飛び道具はあるまい。  細いワイヤーの先に結びつけられた半円の刃は、その端を握ったカイルの指先の操作により、鬱蒼と折り重なる木立の間を満遍なくすり抜け手元に帰還した。  少なくとも森の入口から半径三十メートル以内に敵が潜んでいれば、頭から喉から噴き出した鮮血を円月の刃に残しつつ、息絶えていたであろう。 「手応えはなしか」  カイルは森へ入った。  何事もなく数歩進んで、 「そこだ!」  銀光が一本の巨木の根元へ走り、幹にぶつかったと思うや、一気に頂上めがけて迸ったのだ。  ぎゃっ、と悲鳴があがり、落下してきたのは、まごうかたなきカロリーヌだ。  二時間まえ、大枝の杭を射ち込まれた形跡など毛頭ないが、今は剥き出しになった血まみれの太腿を押さえて喘いでいる。円月刀が切り裂いたのである。 「へっへっへ。どうしたい、バルバロイの用心棒? 遠慮はいらねえ。かかってきてもいいんだぜ」  口ほどにもない奴と嘲笑し、止めの一撃をと両手を引いたカイルの眼を、女の双眸が射た。  何ともいえぬ眼の光であった。  いかん、と思う間もなく、カイルは女のそばにひざまずいていた。  剥き出しの太腿が眼に灼きついた。 「大丈夫かい」  心にもない自分の声を、カイルは朧げな意識の中できいた。 「大丈夫ですとも」  と女は呻くように言った。 「脚が痛いわ。血止めをしなくては——あなた、舐め取って下さる?」  この女がバルバロイの妖女たることを、カイルの頭はすでに意識していない。 「いい……ともよ」  つぶやくように言い、白い素足に吸いついた。  唇はたちまち血で汚れた。  外側を舐め取り、内腿へ入ると、女は切なげに喘いで、もう片方の脚をカイルの腰に巻きつけた。  カイルの血染めの唇は、さらに奥へ進んだ。  喘ぎ声と舌を鳴らす音がやむと、女はそっとカイルの両頬に手をあてた。  言うなりに持ち上がった血染めの顔へ、汚れのない白い顔が近づいていった。  それがどんなに恐ろしい行為か、カイルには理解を絶している。  それでも、本能が危機を察したか、苛立たしいほどゆっくりと腰の円月刀へ伸びた手を、女のやさしい手が押さえた。 「駄目よ。それはキッスが終わってから、あたしのために使ってちょうだい……」  その声だけが響く頭の中に、やがて、唇から黒い闇が広がっていった。  少しして森からでてきたカイルは、頭上に手をかざし、バスへ戻った。  ボルゴフは運転席にいた。 「どうだった?」 「いねえよ。逃げられたらしいが、油断は禁物だぜ」 「ふむ。運転を代われ」  カイルと入れ代わりに席を立ち、ボルゴフは寝室の方へ戻った。  カイルは黙然とハンドルを握っている。 「なあ、カイル——」  ボルゴフが呼んだ。  カイルは動かない。  ボルゴフはまた呼んだ。 「あ——何だい?」  答えた声もどこかよそよそしい。 「近道を教えるぜ。じき、道の左側に赤い枝が一本突き出たところがある。その脇を入るんだ。そこを抜けりゃ、あとは真っすぐ、クレイボーン・ステイツの近所に出る」 「あいよ」  車は少し走って停まった。 「どうした?」 「エンストだ。オイル・チャージャーがいかれたらしい。修理を手伝ってくれよ」  カイルを先にボルゴフは車を降りた。素手である。 「待っててくれよ。先に見てくる」  カイルは車の前部へまわってボルゴフの視界から消えた。  ボルゴフは車の周囲を見回し、軽く頭を掻いた。  掻いてから跳躍した。  車の床と地面との隙間を縫って、妖光が走った。  自分の立っていた位置で火花を散らす二本の円月刀を横目に、ボルゴフの右手は動いた。  背中でベルトにはさんだ弓矢を掴み、空中で構える。  琴糸をはじいたような音がした。  彼は二本の矢を同時に放った。  何とも奇怪なことに、それはもつれ合った円月刀の刃にあたるや何度か回転し、端についたワイヤーに沿って走ったのである。  バスの向こう側で低い唸り声が聞こえた。  車体をまわったボルゴフの足元に、カイルが倒れていた。脳天と腹に鋼鉄の矢が揺れている。 「実の弟をやりたかなかったが、仕方ねえ。吸血鬼に取っ憑かれてちゃあな。だが、おかげで女の正体がわかった。仇は取ってやるから成仏しな」  苦悶する弟の心臓を狙って、ボルゴフは三本目の矢をつがえた。 「今度、吸血鬼に生まれてくるときは、この程度のお陽さまには手をかざさねえようにするんだな」  鋼が弟の心臓を貫くのを、彼は最後まで観察していた。 [#改ページ] 第六章 星へゆく港    1 「彼」はやや途方に暮れていた。  娘のせいである。  どう扱っていいのかよくわからないのだ。  太陽のように健康的な娘ではあるが、何処に住んでいるのか、何故あの人面疽猟師に追われていたのかも話さない。  なにしろ、こっちから訊くわけにはいかないのだから、向こうが話すまで待つしかないのだが。失神から醒めると、すぐ森の中へ行こうとした。  一緒についていきかかると、困った様子を見せるので、放っておこうかなとも思ったが、女ひとりの身に森はやはり危険だ。  娘の話によると、誰かと馬車で森を通りかかったとき、あの猟師に襲われたものらしい。  らしいというのは、娘の話にどうもすんなりとうなずけない部分があるからだ。  それが兄たちや自分とどこかでつながっているような気もしたが、今の[#「今の」に傍点]「彼」には大した問題ではなかった。  何度も礼を言って立ち去る娘を見送り、その姿が森の中へ消えてから何分かして追ってみると、入口からろくすっぽ行かないところで立ち往生している。  結局、請われるままに、娘の恋人を探し求める付き合いをすることになった。  一時間も探し歩くと、まず娘がへばった。肩で息をつき、額には汗が珠を結んでいる。  弱いんだなあ、と彼は自分の健康な身体に自信をもった。すると、憐愍の情が湧いた。なんとか相手を見つけてやりたいと思った。何しろ、自分はいつ、元のところへ戻るかしれないのである。  娘を起こし、また捜索しているうちに、夕闇が訪れてきた。夜の森は危険だ。彼は娘を連れて森を出ようとしたが、うまくいかなかった。 「彼」もまた迷ってしまったのである。  肩を竦める「彼」を見て、娘が脅えるかと思ったが、あにはからんや、くすりと笑った。いくら恋人と一緒とはいえ、辺境のこんなはずれまで馬車で来るだけあって、いい度胸をしている。  底抜けに明るいくせに、どこか憂愁の気のある笑顔は「彼」の保護欲をかき立てた。  このとき少女がおかしなことを言った。  夜になれば、絶対に恋人が探しに来ると。  自信に満ちた瞳をいぶかしく思いつつ、「彼」には信じかねた。  それよりは、こちらへ近づきつつあるはずの兄弟に救いを求めた方がいい。  娘を驚かせぬよう背後にまわって、「彼」は空中に稲妻を送った。  蒼みがかった夕空に白熱の帯は音もなく延びた。  狭隘な谷間の道を抜けていくバスの運転席で、ボルゴフは細い眼をかがやかせた。 「ほう、グローヴの奴がわざわざ合図をよこすとは——奴、何か見つけたな」  暗黒に閉ざされたような森の中を疾走しながら、カロリーヌはふと宙天を仰ぎ、にやりと笑った。 「あの光は、里で見かけたもの。すると、あの[#「あの」に傍点]若造、何かを見つけて合図をしておるな」  マシラだったものの屍体のそばに屈み込み、じっと思案していたマイエルリンクは、さほど離れていない森の片隅から天を刺す光条に、破顔した。 「どんなやつがマシラを斃したかと思っていたが、凄まじいエネルギー……しかし、見ておれ、あの娘に手をかけたら、誰であろうと只ではおかんぞ」  娘の気持ちは不思議と安らかだった。  眼の前の青年のおかげである。  まるで赤ん坊のような血色のいい頬と無邪気な顔つきが、この上ない安心感を与えてくれるのだ。  こんな辺境の森にはおよそ似つかわしくない、「都」住まいが似合うような若者であった。  それにじき、陽が暮れる。  彼の訪れは早いであろう。  自分が何処にいても、彼ならば必ず探し当ててくれる。娘には自信があった。  それにしても、と娘は眼の前で夕風に吹かれている青年をやさしい眼で見つめながら思った。あんなに健康そうなのに、口をきけないなんて可哀想に。  娘は突然、眼をしばたたいた。  青年もはっとしたようにこちらを向く。  朗らかな顔を透して、森の木立が見えた。  青年が消えていく。  哀しそうな眼が娘を見つめ、唇がこんな形に動いた。  さ・よ・な・ら  娘は手を差し伸べた。  水に溶けたガラスのように青年は透き通ってゆく。  さよなら、と娘は必死で言った。自分を守ってくれた男の正体が何であれ、別れには礼を言いたかった。  さよなら、さよなら、ありがとう、さよなら。  そして、青年は消えた。  蒼茫と暮れゆく森の片隅に、少女はひとり取り残された。  風が冷気を増したようであった。  森の奥から、無数の血に狂った野獣の眼が自分を見つめている。  怖い、と娘は心底思った。  怖い、あなた[#「あなた」に傍点]、早く助けに来て。  がさり、と木の枝の揺れる音。  右手後方だった。娘は振り向いた。  人影が近づいてきた。  男か、女か、どんな服装かもわからない。  恐怖が喉を締めつけた。  近づいてくる。  苔が踏みにじられ、枯れ枝の折れる音。  五、六メートル前方で、影の動きは止まった。  詰問するような声が、 「誰、そこにいるのは?——グローヴ?」  女の声と知っても、娘の脅えは溶けなかった。  先刻、自分を襲った男には二人の相棒がおり、うちひとりが女だったことを憶い出したのである。最後の男の名は、よく覚えていない。  ずい、と進み出た人影の中身に、見も知らぬ少女の顔を見出したとき、娘はやっと深い溜め息を洩らして肩の力を抜いた。 「ひょっとして、あなた、——馬車のお客?」  首筋に巻いたスカーフの黒がよく似合う娘はレイラ・マーカスであった。 「あなたは——?」  カロリーヌではないことに喜色を浮かべた娘の顔が、レイラのスタイルを見てすぐにこわばった。  短槍と短針銃——まごうかたなきハンターの持ち物だ。  こんなところをひとりでうろつくハンターなどいるはずがない。となれば——自分を追ってきたのだ。  先刻はマシラ、今度はハンター——度重なる恐怖との遭遇に、娘はがっくりと肩を落とした。 「あのとき、顔は見なかったけれど、やっぱり、黒馬車の客ね」  とレイラは淡々と言った。 「あたし、レイラ・マーカス。あなたの恋人をつけ狙っている吸血鬼ハンターよ」  娘は地面に片手をついた。 「どうしたの? 家へ帰れるのよ」  いぶかしげに訊くレイラの声がどこか弱々しいと感じる余裕は娘になかった。 「帰って。お願い。早くどこかへ行って」 「どうしたって言うの?」 「あの|男《ひと》、きっとすぐやってくるわ。殺し合いになる。わたし、あなたにもあの|男《ひと》にも人殺しをさせたくないの」  レイラは周囲に満ちつつある青い闇を眺めてうなずいた。 「そうでしょうね。夜は貴族の世界——」  一瞬、闘志にも似た猛烈な表情が浮かんだ顔は、すぐ、妙になげやりな、嫌悪感に溢れたものに変わった。それからもう一度、今度は驚いた風に、 「あなた——まだ、人間のままなのね?」  と訊いた。  娘はうなずいた。 「貴族に手ごめにされて連れだされたわけではないのね。まさか、自分からついていくなんてことは……そうなの!?」 「ええ」  と娘はうなずいた。  白い美貌がレイラを見つめていた。力強い光が眼の中にあった。それがあれば、人は大抵のことなら耐えていけるのだった。 「そうなの……」  不思議な羨望と哀しみが、レイラの口調を和やかにしていった。 「あなた、好きなのね、その|男《ひと》を——貴族を」  娘は答えなかった。  それが答えだった。  眼だけがかがやいていた。  レイラはすぐそばの巨木にもたれかかった。身体の芯に熱い粘りがあった。それが、風に乗る霧みたいに全身へ広がっていく。  疲れであった。  二〇年間の疲れが、いまようやく体中へ沁み渡っていくのだった。  レイラは娘を見つめた。  貴族にさらわれ、人であることをやめながら、限りない自信と信頼に支えられている少女と、地上最強の吸血鬼ハンターと謳われながら、いま、無惨な運命を待つだけの自分。  追うものより、追われるものの方が幸せなのだろうか。 「辛くないの?」 「え?」 「辛くはないの? 逃げまわる生活。彼にはもう帰る場所も明日もないのよ」 「わたしにもありません」 「そう——二人そろって、仲のいいこと」  娘は薄く笑った。 「それより、早く逃げて。すぐ、あの人が来ます」 「いいのよ」  とレイラは言った。 「わたしはもうくたびれちゃった。ここであなたの大事な人を待つわ。——それより、もう少し、お話ししましょう」  背後で低い声がした。 「その話、わしにも聞かせてもらおうか」  娘が悲鳴をあげ、レイラが神速で振り向く。  二組の視線の絡み合った顔は、あの猟師のものであった。    2  光条を見かけた森の入口で、ボルゴフは車を停めた。  少しの間、運転席から動かずにいた。  立ち上がった顔に奇妙な表情が浮かんでいた。あらゆる表情をこそげ落とした表情——白痴の顔に近い。  寝室を抜け、奥の武器庫へ入ると、ボルゴフは、木箱から小さな時限信管と爆破スイッチを取り出し、寝室へ戻った。  グローベックのベッドに近寄り、そっと毛布をはずした。  痩せこけた顔が現れた。  無骨な親指を、辛うじて色がついているだけの唇に当てる。  かすかな風圧。  グローベックはまだ生きていた。  ボルゴフの眼からひと筋の涙が落ちた。光る筋はこわい顎鬚につかまり、いつまでもそこから離れなかった。 「とうとう、おれとおまえだけになっちまったなあ」  とボルゴフは、最愛の弟に言った。ノルトよりもカイルよりも、いや、レイラ以上に彼が愛しているのはこの三男坊であった。 「だがよ、今度の仕事は、いよいよ大詰めなんだ。ここはひとつ、どうしてもおめえの力が要る。とはいうものの、さっき発作から戻った[#「発作から戻った」に傍点]ばかりじゃ、すぐに次ってわけにはいくまい」  ここで、ボルゴフはしゃくり上げた。 「だからよ。悪いが、おれの方で起こるようにさせてもらうぜ。どうみても、おめえの発作はあと一回。それが起きたら、もう助からねえ。なら、その生命、おれにくれよ」  哀しいとも不気味ともとれる台詞であったが、すすり泣きながらボルゴフの行った行為は、恐怖そのものであった。  毛布をもうひとめくりすると、肋骨が浮き出た薄い左胸骨上方——心臓のあたりに、時限信管をテープで張りつけたのである。  十センチのビニール・チューブ程度の信管といえど、密着させての爆発は、軽く肋骨を吹き飛ばし、内臓の一部を破壊する。  息も絶え絶えのグローベックの胸で、まさか、彼はそれをやろうとしているのか。  済まねえという言葉。とめどなく溢れる涙。  生命をくれ。  滑り落ちぬ用心なら一枚で済むテープを三重、四重に貼りつけるのは、万がいち、グローベックが剥がそうとしたときの用心だろうか。  作業を終え、やさしく毛布を戻すと、ボルゴフはそっと弟の額を撫でた。 「あばよ。おれは、きっと帰ってくるぜ」  そして、必殺の弓と矢筒を背負い、彼は軽やかな足取りで外へ出た。  夕暮れは青から黒に変わろうとしていた。  ボルゴフは走った。  グローベックの放った光条の位置は勘でわかる。  足が次第に速度を増していった。  筋肉が音を立てて膨れ上がり、驚くべきことに、骨格まで太さを増してゆく。  上半身は巨漢のまま、下半身は巨人の足と化した。  そのくせ、苔だらけの地面を踏みしめる足は、ほとんど音を立てなかった。苔さえもわずかしかえぐらない。  遺伝子の組み換え技術を有していたという両親に授かったものだろうか。  斜面を歩むとき、その体躯が、地面に対してほぼ直角を維持するのはどうしてか。  彼は森へ入った。  常人の五倍に近いスピードで奥へと進む。  とどまることを知らぬようなその足取りが、急に停止した。  奇妙な一角へ出てしまったのである。  それは、土でできた「都」の模型のように見えた。  高さ五メートルほどの円錐形のビル群を、|円筒通路《チューブ・ウェイ》が縦横につないでいる。太さは五十センチもあるだろうか。「都」は森の果てまでつづいているかのようであった。  だが、ボルゴフの眼は建物自体より、足元の大地に注がれていた。  白いものが散らばっていた。  ぽっかり開いた黒い眼窩がボルゴフをひしと見つめる頭蓋、手頃な斧にもなりそうな大腿骨、肋骨、上腕骨……  すべて骨であった。  大半はボルゴフの知っている、あるいは全く知識にない鳥獣たちのものだが、人間の骨もたやすく見つかった。  そのくせ、あたりの空気にはまるで腐敗臭がこもっていない。  何ものかが、血と肉をたちまちのうちに平らげてしまったかのように。 「おーっと」  あわてたような声だけを元の位置に残して、ボルゴフは二メートルも後方へ跳んだ。苔も崩さず着地する。  彼が跳躍した地点で、何やら黒い米粒のようなものがいくつも蠢いていた。 「まだ、おまえらの餌になるわけにゃいかねえんだ、あばよ」  どこか恐ろしそうな声で言い、身を翻しかけたとき——  背筋を戦慄が駆け抜けた。  その途端、彼には敵の正体が知れた。  距離は、奇怪な「都」をはさんだ右正面、八メートル。  ボルゴフの全身から力が抜けた。  戦闘に備え、筋肉が自在に動ける体勢を整えたのである。死力を尽くして戦う際の緊張など、ボルゴフ|級《クラス》のハンターには無縁だ。  凄まじい鬼気の放射を身を屈めて逃し、電光の速さで、一矢を放った。矢はすでにつがえてある。  鬼気は絶えた。  矢の行方も効果もわからない。  梢や葉を揺るがす音もしないことから想像はついた。  右頬のあたりで空気が動いた。  思い切り前へ跳ぶ。  空気を引き裂いて地面へ突き立ったのは、彼が放った矢であった。  素手で受け止めたことには驚かないが、投げ返すパワーの凄まじさがボルゴフの肌に鳥肌を立たせた。  小石も木の枝も、すべては敵の武器であった。  前方に気配が動いた。  身を起こしざま二射目を放とうとして、ボルゴフは硬直した。  青い闇を背景に、黒ずくめの姿が忽然と立っていた。  端整な口元からこぼれる二本の牙を、ボルゴフのハンター眼は見ることができた。 「おめえが獲物か——やっと会えたな」  必殺の矢尻を敵の心臓にポイントしつつ、ボルゴフは歓喜に満ちた声で言った。 「人の血肉をあさる野良犬に挨拶する言葉は持たぬ」  と黒衣の影は静かに言った。 「だが、無益な争いは好まぬ。尻尾を巻いて戻るなら、何もせん」 「ほほお——そりゃ、ありがたいお言葉で」  ボルゴフの矢先は徐々に方向を変えつつあった。  上空に。 「だがな、そうはいかねえんだ!」  言いざま、ボルゴフの行った技は神技に近かったであろう。  ほぼ垂直に放った二本の矢がつるを離れるとほとんど同時に、彼は矢筒から新たに二本を取り出し、目標へと放った。  貴族——マイエルリンクの動揺が伝わるほどのスピードであった。  辛うじてかわし、右へ移動したマイエルリンクの行く手を遮るように新たな一閃が宙を飛び、彼は空中で身をひねってこれを避けた。  着地した足元へつづけざまに二本の矢が突き刺さったのは、次の瞬間であった。  彼は後方へ跳んだ。  怒りの呻きが唇を割った。  まさか、生身の人間が、弓矢という原始的な飛び道具のみで、これほどの危機に彼を陥れようとは!  だが、ボルゴフの罠は最後の仕掛けを用意していたのである。  頭上から落ちかかる唸りに身をひねろうとしたとき、彼の眼は闇を切り裂いて走る黒い光を見た。  どちらへ跳んでも一撃を受ける!  一瞬、彼の動きが硬直したとき——  天空からほぼ垂直に落下した二本の矢は、計算でもしていたかのように彼の両肩を刺し貫いていた。 「く……」  矢を抜こうとして、しかし、手は動かなかった。 「はっはっは。無駄だよ。そいつはいくら貴族だって抜けやしねえ。第一、手が上へ上がるまいよ。どうだい、おれの『追い込み矢』は?」  自信満々たる笑いは、確かにボルゴフの神技の自賛としてふさわしかろう。  彼は最初から二本の矢の落下地点を計算し、間髪入れぬ波状攻撃で、マイエルリンクをそこへ追いやったのである。  しかし、マイエルリンクとて意志により自在に動く。まして、体力、敏捷さなら人間に数倍する彼の動きを封じ、計算通り、落下する瞬間、その真下にいかせたとは。  ボルゴフの神技——『追い込み矢』であった。  そのとき、光景に異変が生じた。  マイエルリンクの足元の地面がさあっと黒みを帯びたのである。  黒い染みみたいなものが前方から彼めがけて押し寄せていくのだ。  跳び退こうとしたその左右を、非情な鉄の唸りがすぎた。  ボルゴフが甲高く、 「どうした、どうした? 逃げねえのか? 逃げられねえよな。動けばおれの矢が心臓を貫く。かといって、立ってりゃ、血の匂いを嗅いだ人食い蟻の餌食だぜ」  そうなのだ。  マイエルリンクの足元めざし、じわじわと迫ってゆく黒い波は、実に恐るべき人食い蟻——ミントの大集団だったのである。 「都」を思わすこの一角は、まさしく都——数億匹に達するこの最も小さく、最も獰猛な生き物の大伽藍であったのだ。 「さあ、さあ、さあ。考えてる暇はねえ。心臓をひと突きか、それとも骨だけ残してミントどもの腹に入るか。いくら貴族だって、ただの骨からは生き返れまいよ。——どうする?」  ゆっくりと、弦の|弛《たる》みを引き切ったボルゴフの眼の中で、貴族の両手が動いた。 「だれよ、あんた?」  短針銃など不要な相手と見くびったか、短槍を引っ下げてレイラはマシラの前に立った。  その顔がこわばったのは、マシラの腹の焼け焦げを目に止めたときであった。  これは、グローベックのパワー・レイが与えた傷ではないか。  それなのに、この男は—— 「その人はちがうのよ!」  娘が震え声で叫んだ。 「もとは、わたしたちの護衛役だったの。それが、別の身体に乗り移って。——お腹に別の顔が——」  言いかけて、娘は身体を海老のように曲げた。急激な腹痛に襲われたかのように。  わけもわからず、レイラの短槍が躍った。  問答無用のハンターの習性が出たのである。男は動かない。その腹へめり込んだはずの槍の穂先が、鋭い音を発して停止したとき、レイラは後方へ跳んでいた。  跳びながら右手が腰の短針銃を掴む。  男の腹から逆流した槍の柄が構えた銃をはね飛ばした。 「よしな!」  死人の神経や発声器官も操れるのか、すでに死亡した猟師の口からでた恫喝の一言と、大口径ライフルの銃口がレイラを立ち竦ませた。 「おまえみたいな生きのいい女も久しぶりだ」  と猟師は人面疽の声で言った。 「ちょうどいい。二人そろって、わしの女にしてやる。来い」  その邪悪な声に導かれるように、レイラは数歩進んだ。  猟師の片腕がシャツをめくり上げる。  腹に浮き出た人の顔を見て、レイラがあっと叫んだ。  顔の唇が尖った。  恐るべき茶色の筋が、レイラの腹めがけて走った。  悲鳴があがった。  レイラのものとも、娘のともちがう。  人面疽の発した声であった。  恐らくは、人面疽自身が移動する管であろう茶色の筋を、一本の白木の針が真横から縫っていたのである。  激痛に苦しみながらも、敵を求めて振り向いた猟師の眉間と心臓を新たな針が貫いた。  むろん、死者は倒れない。  しかし、いつの間に現れたのか、皓々とかがやく月光を満身に浴びてたたずむ人馬に、レイラの感極まった叫びが飛んだ。 「——D!」  美しい吸血鬼ハンターが馬から降りるのを目撃しながら、猟師は動かなかった。 「D——そいつは——!」  レイラの声にかすかにうなずき、Dの右手が肩へと伸びた。  人面疽は逃れられなかった。  体内へ潜るにも、移送管を貫く針が邪魔をしていた。  Dの背が鞘鳴りの音を立てたとき——猟師の腹がいきなり膨れ上がった。  どぼっ! とドブに石を投げ込んだような音がして、灰色の塊が腹から宙へとんだ。  血と臓腑が後を追って伸びる。  塊は凄まじい勢いで草むらへ消えた。 「こりゃ、驚いた」  とDの腰のあたりで低い声が言った。 「わしの同類に、空をとべる奴がいるとは思わなかったぞ。いや、愉快、愉快」  白刃を鞘に収め、Dは無言でレイラたちの方へ歩いてきた。  タフなダンピールであればあるほど体力充填に日数のかかる“陽光症”を、もう切り抜けたのか、二人の乙女を見つめる双眸は限りなく黒い霊気を漂わせていた。  この若者は、やはり、ただのダンピールではないのであろう。 「ほえほえほえ。二人とも無事だったらしいの。光を見つけたわしに礼を言え。こやつはまだ、眠っとったんじゃ」  かすかな声は、レイラと娘の耳には届かない。  自分を見つめぬDの視線を追い、レイラは娘が地に伏しているのに気がついた。  慌てて駆け寄る。 「ねえ、しっかりして!」  Dがかたわらにきて身を屈めた。  鳩尾のあたりを押さえた娘の手の上に左手を重ね、 「今のやつ[#「やつ」に傍点]か?」  と訊く。 「そうじゃ」  左手から発された返答に、レイラは目を見張った。 「今ならまだ間に合うぞ」  Dはうなずき、娘を仰向けに草むらへ横たえると、そっと両手を脇へ退けた。  美しい手が動き、少女の腹部が剥き出しになった。  レイラが悲鳴を噛み殺した。  陶器を思わせるすべすべした腹の真ん中には、醜悪な人間の顔が浮き出ていたのである。  それは、先刻、猟師の腹にへばりついていたものと瓜二つの表情をしていた。 「こやつらの仲間はすべて同じ顔をしておる。しかも共生記憶を持っておってな。ひとりの考えが即、別の連中に伝わる。なかなか、厄介なタイプじゃな」 「何故、この娘に取り憑いた?」 「助平ごころじゃよ。助平ごころ。やつらとて美意識を持つ生物。しかも、宿主にしている人間の五感を使ってセックスも営める。この娘の身体でそうしたくなったのじゃろう」  Dの右手に白刃が光っていた。 「!?」  Dの意図に気づいたか、顔は妖々と沈みかかる。  その眉間めがけて放ったDの刃は、精確無比に、人面疽の口腔を貫いたのである。 「ぎええ」  と喚いて、そいつの目玉は反転した。  口の両脇からふた筋の血の線を噴き出したきり、女体の中へ消えていく。 「よっしゃ。これで正常な器官に同化されてしまうだろう」  声がまた言った。  どんな痛みがあったのか、娘は失神していた。  Dは立ち上がった。 「D、その左手は?」 「女に噛まれたそうだな?」  レイラは暗澹たる表情でうなずいた。 「もうひとり、始末しなければならん奴がでたな」 「え?」 「借りは返す」  言葉は短かった。  レイラの死闘を、彼は知っていたのである。  貴族の腕が肩へではなく、反対側の脇の下へ伸びたとき、ボルゴフは青ざめた。  必殺の矢を射つことも忘れさせる、あり得ない光景であった。  脇の下へ突き出た矢の先端をぐいと握るや、貴族は一気にそれを引き抜いたのである。上へではなく、下へ。  矢の反対側には、無論、直進するよう風切り用の羽根がついている。ボルゴフのものは矢と同じ鉄であった。  それに肉をえぐり、骨を削らせ、貴族は自由になる方向——下へ引き下ろして[#「下ろして」に傍点]みせたのだ。  常識を破る貴族の怪力と行為であった。  次の矢を!——思った刹那、風を切って飛来したものがある。  貴族が抜き取った矢だ。  激痛がボルゴフの腹部を捉えた。  敵の投げ返した矢は、ボルゴフの放つそれより速かった。  腹に刺さって背中まで抜けた矢の端を、ボルゴフはぼんやりと見つめた。血がちょろちょろとそれを伝わって出ていく。  貴族の声が聞こえた。 「勝負あったな、野良犬。ミントの餌になるのはうぬ[#「うぬ」に傍点]の方だ」  ボルゴフは眼を見開いた。 「そうはいかねえ。勝負は、これからよ!」  言い捨てて走った。  ミントの巣の方へ。  食肉蟻の巣は、蟻自体が分泌する粘着液で土を乾し固めた脆い「都」にすぎない。人ひとりどころか、大型の鳥が舞い降りただけで容易に崩れ去る。  ボルゴフはその上に乗った。いや、くっついた、というべきか。彼の両足は壁面に対して直角に立った。しかも、どのような技を使っているのか、脆い楼閣にひびさえ入れなかった。  さすがのマイエルリンクが驚きの叫びを発した怪異な姿勢から、ボルゴフは矢を放った。  すでに、先刻までのパワーはない。  マイエルリンクの右手が動き、鋼の凶器は次々と打ち落とされた。  蟻の巣から通路へ|猿《ましら》のごとく逆しまに垂れ下がり、敵の目を眩惑しつつ、もう一度円筒の壁面へ戻ったとき——  異様な感触が両脚を捉えた。  多量の出血が、体重を消却する両脚の技を失わせたか、崩れ落ちる土砂とともに、彼は人食い蟻の巣のど真ん中へ落下していた。  おびただしい虫が全身に群がる感覚。  ボルゴフは絶叫した。  渾身の力を振り絞って起き上がり、走った。  一足ごとに塔を崩し、通路を破壊して——  腹部の痛みも感じなかった。  生きながら食われる恐怖が心臓を鷲掴みにしていた。  悲鳴を轟かせながら、彼は森の奥へと走った。    3  月光が三つの影を淡く地上へ墜としていた。  Dと、レイラと、娘と。  レイラは長い溜め息をついた。  娘が、ここへ到るまでの経緯を語り終えたあとである。  風だけが三人の周りを巡り、周囲には闇が墜ちていた。 「ひとつだけ、きいておきたい」  Dが言った。  月光を振り仰いだまま。 「君は知っているのか? ——クレイボーン・ステイツは……」  娘がうなずいた。  そうか[#「そうか」に傍点]、とDは言った。 「なら、行くのもいいだろう。だが、それから、どうする?」 「わかりません」  と娘は答えた。 「そこへ行けば、私たちの旅は終わります。どんな形を取るにせよ」  Dは沈黙した。  木々の梢で、風が哀しげに歌を歌っている。 「いいことなのに」  とレイラがつぶやいた。 「とてもいいことなのに……どうしてよくないことになってしまうのかしら?」  長い間、三人は動かなかった。  Dが月光を揺らめかせた。 「お迎えが来たようだ」  彼は森の奥に眼をやった。  娘の眼に涙が光った。 「やめて、お願い。私を行かせて下さい。このまま行けば、明日の夜にはクレイボーン・ステイツに着きます。何もかもそこで終わり。後は——」  Dは向き直った。 「動かないで」  レイラが言った。  Dは振り向いた。  短針銃の銃口は彼の胸に狙いをつけていた。 「行かせてやって。——決着はクレイボーン・ステイツでつければいいわ」  Dは動かない。 「ありがとう」と娘は言った。「ありがとう、ありがとう、二人とも」  森の奥に長身の人影が浮かんでいた。  娘は走り寄った。  少しためらい、ふたつの影が寄り添うように木立の間へ消えてから、レイラは短針銃を下ろした。 「ごめんね、D」 「詫びか。おれはもう一度礼を言わねばならん」 「そんな——」 「もう眠れ。明日の朝、車を停めたところまで連れていく。そこでお別れだ。後は、おれを尾けるなり、兄のところへ帰るなりすればいい。女ダンピールは必ずおれが始末をつける」 「わたし……」  一緒に行きたいという言葉を、レイラは呑み込んだ。  どうやって影と旅をすればいいのだろう。  足元に、毛布が放られた。  Dは別の一枚を持って、手近の幹に歩み寄っている。  地面に毛布を敷き、幹にもたれて腕を組んだ。背中の剣は左脇に置いてある。  少し考え、レイラはDの隣に腰を下ろした。  Dがじろりと見つめる。吸い込まれるような深い瞳であった。陶然となるのをこらえ、 「ご迷惑? 血を吸われた女じゃ?」 「いや」 「ありがとう」  胸まで毛布をかけ、レイラは腕まくらをして地面に横たわった。  風には香りがあった。  夜咲くジャスミン、月光草、マイヨボタン、ムーン・シャイン……甘く……切なく……  夜には生命があった。  宵蛙の鳴き声、カミキリボーズの顎の音、オオハルムシのささやき……小さく、たくましく、生命に溢れて……  自分が女ダンピールの獲物であることを、レイラは束の間忘れた。  初めての経験であった。 「おかしいわね」  と鼻の頭を掻きながら言った。  Dは動かず、耳だけを澄ませたようだ。 「夜がちっとも怖くない。兄たちの誰といたって、こんなことなかったのに……毎晩毎晩、野獣や邪妖精に狙われてる気がして……バスの中にいても不安だったのよ」  それが、今はまるで平気だった。 「どうしてかしらね」  言ってから、レイラは驚いた。  この冷厳な若者が答えを返すとでも思っていたのだろうか。  自分で言った。ひっそりと、胸の裡で。  あなたといるからよ。  風の歌を聴きながらレイラが眠ったあとも、若い吸血鬼ハンターは、哀しみも怒りも遠い虚無の眼を、じっと夜の暗闇に向けていた。  同じ頃、少し離れた森の中で、奇妙な、そして何とも不気味な邂逅が行われようとしていた。  ボルゴフは内臓が貪り食われるのを感じていた。  痛みはとうにない。身体じゅうに蟻がたかっていた。顔の内側にもいる。  右眼が落ちるのを見た。  眼窩を這いずる蟻の感覚は、妙にこそばゆかった。  数万匹が自分の肉を貪り食っている。ほんの些細なひと噛みごとに、ぷつぷつと冷気が湧く。  寒い。  無性に寒い。  残った左眼の隅で、奇妙なものが草をかき分けて現れた。  灰色の粘塊であった。  奇妙なのは、手も足もないそれに、目鼻だけはきちんとついていることだった。 「ほう、いいものを見つけた」  とそいつは言った。 「少し傷んどるが、蟻どもを払えば十分使えるだろう。移動はやはり、人の身体に限る」  口元にやってきた。 「失礼するぞ。わしも急いでいるのだ」  開く力もない唇を、四肢のない粘塊がこじ開け、ボルゴフは、そいつが食道から胃の腑へ滑ってゆくのを感じた。    4  クレイボーン・ステイツという名の示す存在は、もはやない。  辺境第九八|区《セクター》の首都所在地の名は、そこが近隣区にこれ[#「これ」に傍点]あるをもって鳴り響いていた|宇宙空港《スペース・エア・ポート》の通称となり、それもいつか忘れ去られて、人々の口の端に上ることも絶えて久しい。  |自動運営装置《オート・キーピング・システム》の破壊されたターミナル・ビルの内側は埃の跳梁にまかせ、破れた強化ガラスから吹き込む風が、その上にうっすらと風紋を描いていくのだった。  その日の夕暮れどき、空港ビルのひとつを塒にしている浮浪者は、時ならぬ訪問者に、ささやかな|夕食《ディナー》の時間を邪魔される羽目になった。  |中央《メイン》ゲートをくぐってきたのは、六頭だての黒馬車であった。  ターミナル・ビルの入口で停車したそれ[#「それ」に傍点]から、二人の客が降りた。  男と女だ。  浮浪者が驚いたことに、貴族と人間のカップルであった。  ビルの中へ入った二人がいつまでも手をつなぎ合っていることが、彼をますます混乱させた。  人間と貴族が——まさか!?  悪い夢でも見たように、彼はそっと部屋を出、空港の外へ向かった。  青いたそがれのロビーに、二人は茫然と立ち尽くしていた。  正確には、マイエルリンクひとりだけが。  娘の表情の痛ましさは、マイエルリンクに向けたものであった。 「これは……こんなはずはない——」  意識せず、言葉は虚ろに響いた。  星へ赴く船は無惨な形骸だけを広大な敷地にさらしていた。  エンジン部が溶けた光子宇宙船、真ん中からへし折れたギャラクシー・シップ、原形を留めぬまでに破壊された|空間歪曲《ワープ》スクーナー……  |停留帯《エプロン》を埋めるものは、静かで無惨な死であった。  二人で辿るべき星への道はどこにもないのだった。 「こんなはずはない……噂では……」  マイエルリンクの頭の中で、空港が今なおささやかな活動をつづけているという噂は、日ごとに真実味を帯び、形を備え、確たる現実となっていたのであろう。  滅びを知り、滅びを謳いながらも、やはり彼は貴族であった。  立ち竦む彼の肩を、そっとやさしい手が押さえた。  彼は娘の顔を見た。澄み切った表情を。 「いいの。また、別のところへ行きましょう。わたし、あなたと一緒なら、どこだって行ける。いつまでも——死ぬまで一緒にいられる……」 「わたしは——死ねん」 「なら……」  と娘は思い決したような声で言った。  すがるような瞳の中に、涙が溢れてきた。 「わたしも、あなたと同じに……」 「それは、いけない」 「いいの」  娘は首を振った。 「いいの。わたし、最初からそのつもりだった……」  若い二人の顔を、青い光が染めていた。  マイエルリンクの顔がゆっくりと娘の首すじに近づいていった。  娘は眼を閉じていた。  可憐な長い睫毛が慄えた。  大事な人の唇を首すじに感じたとき、その眼がかっと開いた。  絶叫がロビーに木魂した。  悲鳴をあげて身を振り放した恋人を、彼は茫然と見つめていた。  娘の激情はすぐに通りすぎた。  凄まじい後悔の念が顔に湧いた。唇が震えた。 「わたし……わたし……とんでもないことを……」  マイエルリンクは微笑した。  何かを失った男の微笑だった。 「いいんだ」  と彼はやさしく言った。 「それでもいいのだよ。君が先に朽ちたら、私も後を追おう」  少女がぶつかるようにすがりついた。  声もなく震える肩を彼はそっと撫でた。 「さ、行こうか。星への道は閉ざされたが、この世界なら、また旅はできるだろう」  娘が顔を上げ、うなずいた。  腰までかかる髪をいたわるように撫で、彼はロビーの出入口に目をやった。  黒いコート姿が飄然と立っていた。  胸元の青いペンダントと、おぞましいほどの美貌が彼の眼に灼きついた。  彼は黙って娘を押しやった。 「旅は終わりだ」  とDは言った。 「娘さんを返してもらおう」 「もっていけ。おまえに生命があったらな」  マイエルリンクは語気荒く言った。恋人をそばに置いて、戦いを回避する努力もない。 「こっちへいらっしゃい」  少し離れた壁際のレイラが娘の手を掴んで部屋の隅へ連れていった。  Dはマイエルリンクの前へと歩いた。三メートルの距離をおいて留まる。 「なあ、D」  とマイエルリンクは溜め息のように言葉を吐き出した。 「やはり星への道はなかった。おぬし、知っておったのか?」  Dは答えない。  二人は相対した。  憎しみも怒りも哀しみも捨てて。  マイエルリンクの右手指から鋭い爪が伸びた。  どちらからともなく距離を詰める。  黒い光が真横に一閃、Dは音もなく空中へ。唸りを立てて振り下ろされる妖刃が、マイエルリンクの左手に当たって火花を散らせた。  ここぞとふたたび横殴りに襲う黒い爪は、しかし、もう一度空を斬り、Dは二メートルも後方へ跳びすさっていた。  廃滅の時だけが澱むロビーに、今日だけは凝集された生と死の抗争があった。  二人の死闘に眼を奪われていたとき、レイラは首筋を生温かい吐息が這うのを感じた。 「おいで、こっちへ」  悩ましい女の声であった。  不思議なことに、娘はまるで気づかない。 「おいで、こっちへ」  レイラがそっと後方へ下がっても、娘は前方の死闘に魂を奪われたままだ。  レイラの右手にナイフらしいものが握らされた。 「これで、あの娘をお刺し。殺してしまうのよ」  声の主は、まだ、娘さえ殺せば、マイエルリンクが自分のものになると思っているのだろうか。  レイラはうなずいた。  ナイフの柄を握りしめる。  娘の背後にまわり、そっと振り上げた。 「今よ!」  レイラの体は半回転した。  眼の前にカロリーヌの狂喜に歪んだ顔があった。  それが驚愕へ変わる前に——  銀のナイフは深々と女ダンピールの心臓をえぐっていたのである。  しかも、闘争中のふたりの神経を乱さぬ配慮か、血泡を噴く唇に左手で蓋までして……  驚愕と苦痛から死の色へと変わる瞳に向かって、レイラはにんまりと笑った。 「お気の毒ね。あなたに命令されたとき、ようやく気がついたの。血を吸われても、操り人形にならない女って、いたわよね」  その特異体質者が、レイラだったとは。  くずおれる美女の肢体から眼を離したとき、死闘の決着はつこうとしていた。  跳びすさりざま放ったDの白木の針をことごとく打ち落とした刹那、マイエルリンクのこころに余裕が生じた。  太い銀光の閃きを見たのはその瞬間であった。  両手は最前のスピードを復活できなかった。  マイエルリンクの隙を計算し尽くして放ったDの長剣は、見事に彼の腹を刺し貫いていたのである。  血風を巻き起こし、どうと倒れる貴族の元へ、娘が風を巻いて走り寄った。 「揺すらないでくれ」  苦しい息の下でマイエルリンクは苦笑した。  Dが近づいた。  獲物と狩人、二組の眼が合った。  不思議な眼の色であった。 「うまくよけたな」  Dは静かに言った。  腹への一撃がいかに深くとも、貴族は滅ぼせない。刃を抜けば、Dの与えた傷であろうと、いつか再生する。 「なぜ、はずした?」  マイエルリンクが訊いた。  女と、小さな死闘を終えて近づいてきたレイラが、はっとDの方を見た。  答えず、Dは身を屈め、娘の長い髪を数条手に取った。  短剣を抜き、端から二十センチほどを切り取ってコートのポケットに収めた。 「髪さえあれば、治安官事務所で身元は確認できる」  と彼は言った。 「マイエルリンク男爵と人間の恋人は死んだ。二度と人前に姿は現すまい」  娘の眼に、なんともいえない光が湧き上がってきた。  Dが柄を握ると、あっという間に長剣は抜き取られていた。  鞘が鳴った。 「これで一千万。簡単な仕事だ」  それだけ言って、Dは出入口へ歩き出した。 「D——!」  後を追おうとしたレイラの耳元を、このとき風の唸りがかすめた。  肉を貫く音に振り返ったDは、マイエルリンクの胸を貫く鋼鉄の矢を見た。  その角度から投射方向を割り出し、Dの右手から白銀の光条が飛んだ。  大天井に当たって撥ね返るそれを辛くもかわし、すうっと、蜘蛛みたいに横へ走った人影がある。 「兄さん!」  レイラが叫んだ。  Dもボルゴフを見た。  だが、それは本当にボルゴフであったろうか。  腹部にはぽっかりと大穴が開き、赤黒い内臓の断片と筋肉、骨格が覆いようもない。腿はどちらも半ば白骨と化し、顔ときたら右半分が骸骨だ。  人食い蟻ミントに襲われた末路であった。 「けへへ——こんどはてめえだ!」  Dめがけて迸る黒い稲妻は、しかし、ことごとく打ち落とされていた。  死者に生前の技倆はない。  攻撃角度を変えようと、ボルゴフは天井から壁へと走った。  スピードには自信があった。  生前のスピードに。  誰にも追えぬはずの真下から垂直に白光が噴き上がり、彼の脳天と肩を貫いたのは次の一刹那であった。  それだけなら、とうに死人と化したボルゴフは平気だ。だが、Dの神技か、撥ね返った一本は白骨と化した右足首を打ち砕いていた。  残る片足だけでは、百キロ近い体重を支えることができず、ボルゴフの巨体はもんどりうって十メートル近い高みから、ロビーの床に激突した。 「畜生め」  とやや肉のついている胸部で、呻くような声が吐き捨てた。 「だが、奴の記憶によれば、まだ、手はあるぞ」  骨に肉がこびりついた無惨な右手がズボンのポケットに入った。  このとき、空港の少し手前の道にパークしてあったバスの内部で、食料を探していた浮浪者は、奥に並んだベッドのひとつから小さな炸裂音をきいて跳び上がった。  凄愴な鬼気を湛えて歩み寄るDとボルゴフとの間に、ひとりの若者が忽然と立っていた。 「でたな、グローヴ」  とボルゴフの死体がボルゴフの声で言った。 「やっちまえ、どいつもこいつもだ」  その言葉が終わらぬうちにDは跳躍した。  長剣が若者の肩に食い込み水のように通り抜けた。  若者はDを見ていなかった。  ロビーの一角で黒衣の影を抱いてすすり泣く、長い髪の娘を見つめていた。  ピンク色の顔に、ふと哀しげな色が浮かんだ。小さく頭が横に振られた。 「グロ……グローヴ!?」  兄の言葉が終わらぬうちに、若者は透き通り、すぐに消えた。  苦痛のせいか、ベッドから身を乗り出したミイラのような身体へ恐る恐る近づいていった浮浪者は、その若者が眼の前に現れた途端、ついに腰を抜かしてしまった。  若者はもの哀しげな眼で痙攣する身体を見つめ、それから、身を屈めて覆いかぶさった——と見る間に、これは貧弱な身体に溶け込み、ベッドから乗り出した身体は小さく痙攣して、それきり動かなくなった。  ボルゴフの身体に歩み寄るや、Dはすぐ、彼の胸部に左手のひらを押しつけた。  ううっという苦鳴があがった。  足の方から。  見よ、何やらボルゴフの腿の内で蠢くものが、糸で引かれるかのように、徐々に徐々に彼の胸めがけて上昇してくるではないか。  それが下腹をすぎ、ぱっくり開いた内臓の内側を抜けて、ついにDの手のひらの下に達したとき、ばりりと肉と骨を砕くような嫌な音が木魂した。  断末魔の悲鳴があがり、すぐにやんだ。  Dは左手を離した。その真ん中に小さな小さな口が開き、そこからナマズの尻尾のようなものがうねくり出ていたが、すぐ口に吸い込まれ、またもバリバリと咀嚼の音がするや、ペロリと舌が出て唇を舐め、唇ごと消滅した。  屍と化したボルゴフに目もくれず、Dは娘の方に振り返った。  娘はマイエルリンクのかたわらに倒れていた。  脈を取っていたレイラがDの方を見、涙でいっぱいの顔を振った。  娘の胸に刺さっているのは、マイエルリンクの爪であった。娘はそれを握り、自らの胸を刺したのだ。  不思議と安らかな死に顔を、Dは疲れたような眼差しで見下ろした。  レイラの声がどこかできこえた。  とってもいいことなのに、どうして悪いことになってしまうのかしら。  人間と貴族——どちらもそのまま死んだ。人は人、貴族は貴族…… 「ありがとうと言ったわ」  レイラが放心したように言った。  Dはコートのポケットから数条の髪の毛を取り出した。  それが娘の名残だった。  少しして、黒ずくめの美青年から大枚の金をもらって埋葬を頼まれた浮浪者が、ロビーへ足を踏み入れたとき、吹き込む風は、娘の肩に置かれたそれを繚乱と吹き散らした。  空港の入口でレイラはDの馬から降りた。  見つめる美貌へ、 「わたし、北の町へ行くわ」  と言った。 「小さな、いつも雪に覆われてるような街だけど、そこの肉屋の若主人に結婚を申し込まれたことがあるのよ。わたしの素姓を知っても、構わないと言ってくれたたったひとりの男。今じゃもう、妻子持ちかもしれないけれど、いつまでも待つって言った。それに期待してみるわ」  Dはうなずいた。 「達者でな」 「あなたもね」  Dは馬を進めた。  青い闇が背後にたたずむレイラの姿を覆い隠す頃、Dの口元を淡い微笑が|過《よぎ》った。  もしもレイラが眼に留めたなら、それを浮かばせた別れの言葉を、いつまでも誇りに思ったことだろう。  それは、そんな微笑だった。 [#改ページ] あとがき  お待たせいたしました、と大見得を切っていいものかどうか。  一年と五カ月ぶりのDであります。  アダルトものを含む私の作品中、最も苦労した一篇と断言いたします。  こんなに筆が進まなかったDも珍しい。一日中、部屋に閉じこもって、十枚なんて日もあったのですから。  毎日原稿を手渡すたび、 「ありゃあ」  とおっしゃったソノラマ編集部のIさんに心から謝意を表します。  おとしたら、坊主頭になろうと思っていたのですよ、ホントの話。  しかし、駆け出しの物書きが書く小説のために、こんなにも我慢強く待っていただけるとは望外の感激でありました。Iさんをはじめとするソノラマ編集部の皆さん、印刷所の方々、そして、T書店の美人編集者Kさんにお礼の言葉とお詫びとつつしんで献上いたします。  ありがとうございました。そして、ごめんなさい。  もうひとつ、前作『風立ちて“D”』以来一年有余のあいだ、数多くの方から税務署の督促状にも勝る迫力の催促状を多々頂戴いたしました。これほどDを気に入ってくださる方がいる——それだけで、筆の進みが少しはよくなってくれたようです。  皆さんにも心の底からありがとうございます。  三冊目のD。どうぞごゆっくりごらん下さい。 一九八五年六月二八日  「ドラキュラ復活/吸血のエクソシズム」を観ながら    菊地秀行